砂糖にかける男
栗林御園内の薬園作りがいそがしいので、あっと思うまに、その年は暮れてしまった。
明くれば寛延3年、源内は数え年二十三歳の春を迎える。
池田玄丈もすでに二十歳。はじめて塔山(とうざん)の薬園にきたときの子ども子どもした少年ではない。背たけこそ源内にくらべると低く、また愛くるしいまる顔であることもかわりはないが、態度といい学問の進み方といい、もうりっばなおとなである。
源内は、前年の正月に父がなくなっているので、一家の長としての責任からも、この年の正月は七日間の休みのあいだ、薬園の見回りは玄丈にまかせて、志度に帰省していた。
7日に高松に帰り着くと、源内はまず玄丈の実家によった。
「ああ平賀さま、明けましておめでとうございます。」
源内の顔を見ると、玄丈がしょうきげんであいさつした。
「ああ、おめでとう。」
「ところで……おるす中に、もう一つおめでとうと申しあげることがあったのです。」
「ほほう、なにかなあ?」
「はい。5日のお昼に、西尾さまがご自身で薬園に見えられまして……浪華(なにわ)から、甘庶(かんしゃ)の株(かぶ)が届いたとおっしやるのです。浪華のお留守居役にずっとまえからたのんであったのが、年末になって、やっと薩摩(さつま:鹿児島県)から届いたのだそうです。」
「そうか、それはよかった。−−しかし、薩摩では、庶苗は他国へ持ち出すのは国禁になっていると聞いているが……。」
源内は、不審(ふしん)げに首をひねった。
「はい。浪華のお留守居役が、薩摩からきている人でひじょうに困っている人があったのを、助けてあげたことがあるのだそうです。その人にひそかに依頼しておいたのが、やっと届いたのだそうです。長崎を経由して、船で浪華に届いたのだそうですが、送るのにずいぶん苦心したとかで……。」
「そうだろう、たいへんだったろう。」
源内はうなずいた。封建社会で、各藩がそれぞれ閉鎖経済にたてこもっており、特産品は他国には秘密をあかしたり、材料をわたしたりはしない時代だった。特に薩摩(さつま)の島津藩(しまずはん)は、統制がもっともきびしかった。−117−
「それで……枯れたりいたんだりはしていなかったろうか?」
「だいしょうぶですよ。中には多少粘れかかったのもありましたが、すぐ手入れしておきました。力三や浜吉にもきてもろうて、かわいた砂地を選んで、二、三尺(一尺は約30センチ)ほってたくわえておきました。水や湿気のはいらぬようにしてあります。」
「それはありがとう。すぐ行って見てみようか。」
薬園の虫みたいに熱心なこのふたりには、正月もなにもなかった。
手早く玄丈は身じたくして、すぐいっしょに家を出ようとした。
「まあ平賀さま、お祝いに一献召しあがっていただこうとぞんじておりますのに……。」
もう十九にもなって、におうように美しくなったゆきが、お正月の晴れ着で玄関に出てきて、源内を引きとめた。
「いや、ゆきどの。おこころざしはありがたいが、だいしなご用なので……そのうちまたきますから……。」
「でも……。」
ゆきが、悲しそうな目で源内を見あげた。
「心配せんでええ。わたしがきっとお連れする。今晩はうちでとまっていただくから……、おまはんもたのしみにして、日が碁れるまで待っていなさい。」
玄丈はなにげなくいったらしいのだが、ゆきはたちまち顔をまっかにした。
「まあ、あにさん、いやっ……!」
消えるような声でいうと、たもとを顔にあてて、かしそうにうつむいてしまった。
そのゆきを見て、源内ははっと思った。勤勉で誠実このうえもない玄丈は、世界じゅうでいちばんたのもしい、また現在のところたったひとりしかいない愛弟子だったし、その妹であるゆきには、かねがね好意は持っていた。しかし、ゆきを特別の女性として、特別の目で見たことは一度もなかった。
(ゆきさんは、おれに特別の好意を、いわば愛情を持っているのではないかしら?)
源内は気づくと、自分でも顔が赤くなってしまった。−118−
源内はもう二十三歳である。しかも、前年に父がなくなっているので、すでに一家の主人でもある。早婚な当時としては、もうお嫁さんをもらわねばならない年齢である。
しかし、学問と薬園の仕事に、われをわすれて没頭(ぼっとう)しているので、源内には、女性の友だちなど、ひとりもなかった。
周囲の人々も、そんな源内をよく知っているので、いましばらくは学問に専念させておこうと思うのか、まだお嫁さんの話を持ってくる者もなかった。
(けれども、ゆきさんが、もし自分に好意を持ってくれているのなら、そうだ、思いきってお嫁にもらってはどうだろう!)
源内は、生まれてはじめてそんなことを考えてみた。
(おれは玄丈を好きだ。弟のようにかわいい。同しように、おれはゆきさんをかわいいと思うし、またよく考えてみると、おれはゆきさんを、ずっと前から好きだったのだ−−。)
栗林(りつりん)への道々、源内は考えにふけった、なんだか頭が熱い感じだ。しかし、栗林のご門をはいって薬園のそばまでくると、源内はもうゆきのことはわすれていた。
玄丈が指さした。甘蔗をいけた場所は薬園の入り口に近いあたりで、まず簡単(かんたん)な日おいが目についた。
「土地は二、三尺ほったといったが……、土はどのくらいの厚さでかぶせた?」
「はい、数日のことだと思いましたので、ほんのうすく……、その上にこもをかぶせてあります。」
「うん、茎(くき)は?」
「はい、二節ずつに切っときました。」
そうか、と源内はまんぞくそうにうなずいた。それから、そのあたりの石に腰をおろして、玄丈とふたりで、あすからの甘蔗作りの相談にふけった。
−−これまで、讃岐(さぬき)の国はもちろん、日本じゆうのどの地方でも、薩摩(さつま:鹿児島県)をのぞいて、甘蔗の栽培に成功したところはなかった。
にもかかわらず、平和が長く続いて、菓子などは多く製造されていた。
「平賀さん、そこです。」−119−
古い書物によると、このときより70年も昔の天和のころ(1681〜83年)に、すでに京都の本町の桔梗屋河内(ききょうやかわち)という店で製造した葉子の種類は、ざされ石、夜の桜・松衣(まつごろも)・寝覚(ねざめ)・梅花餅(ばいかもち)・薄雪餅(うすゆきもち)・椿餅・唐饅頭(からまんじゅう)・氷饅頭(こおりまんじゅう)・鬼饅頭(おにまんじゅう)など、およそ百七十余種類もあったという。
天和(てんわ)時代から5、6年後の元禄(げんろく)時代には、年間の砂糖の輸入量が、四百余万戸という記録が残っている。
これらの砂糖はほとんどオランダや中国から輸入していたわけで、そのために海外に支払われる金銀の量もおびただしく、将軍吉宗(しょうぐんよしむね)が国産を奨励して輸入をふせごうと努力したことは、まえにも述べたとおりだ。
しかし、薩摩以外はまだ成功したところがないということは、源内たちも完全な知識は持っていなかったということであろう。だからこのときの甘蔗(かんしゃ)の栽培は、書物にたよっての手さぐりの状態だったのであろう。
その手さぐりで、ふたりがどんなぐあいに栽培を進めたかの詳細(しょうさい)な記録はないが、例の『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』に、人参栽培法に続いて『甘蔗培養ならびに製造の法』というのがのっていて、その文章の中で源内は、
「甘蔗はそう多くやってみたことがないので、詳細はわからない。ここに述べたのは、書物で調べたこと、私がちょっと試験したことを合わせたもので、各自この線にそって、数年やればきっとわかるだろう。」
と書いている。源内が「ちょっと試みた」というのは、このときの玄丈との試作のことであろう。
さてその試作では−−源内と玄丈は、まず栽培地として、栗林の薬園から東へ千メートルほどの『お花畑』と呼ばれている土地を選んだ。
ここは高松城下の南東の郊外で、農家が野菜や花などを作っているところである。もとをいうと、香東(こうとう)川のせき止められた東の流れの河川敷きや沿岸だった土地で、砂まじりの荒れ地である。
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源内たちが読んだ書物には、甘蔗は砂まじりの土地がいいと書かれていた。菜園のほかは雑木林か荒れ地しかないこんなさびしい土地が開発されて、将来優秀な甘蔗産地にでもなれば、地元の利益は大きいわけであった。
甘薦には実がなく、したがって種子がない。これを栽培するには、茎を坊って植えるのである。その時期は、正月中ごろの晴れわたった日がよいとされていた。
芽が出てきて、5、6センチに育っとうす肥(ごえ)をそそぐ。芽が20センチほどになるのを待って、本園に植え直す。
それから、生長するにしたがって、あぜをすき、中溝にかける土をしだいに厚くしていく。長さが数十センチという程度にまで生長すると、あぶらかすを水にひたして、肥料としてほどこし、あぜの雑草を取ってやる。
こんなにして、甘蕪はしだいに生長するのだが、6月以後になると、横から出てきた茎は、すべて切りすてることにする。
こうして甘蕪は、夏をすくすくと伸びていく。その横で、玄丈は汗みずくになって手入れにふけっている。
やがて秋。
やがて初冬。廿庶は人間の背たけほどにも高くなっている。
甘蔗は南方の原産なので、冬には弱い。霜にあうと枯れてしまうといわれるので、十分に成熟するのを待ち、しかも霜の降(お)りない以前に、うまく時期を計って切らなければならない。早く切り過きては糖分が少ないし、遅れると霜にやられる。−−ここの判断がむずかしい。
さて−−その年の甘蔗は、こうして刈り取る時期がきた。
「いよいよ、これから砂糖の製造ですねえ。平賀さん、果たしてあまい砂糖が取れますかねえ?」
玄丈は、自分の背たけほど高く仲びた甘蔗を刈りながら、首をひねる。
「それは取れるはずだ。理屈のうえではそうなっておる。実際には、やってみてのおたのしみというところかなあ。−−まあ一本かじってみろ。」
源内はぶらぶら、作業を見回っている。横に刈り取って積んである甘蔗の一本を、三十センチほどに切って、玄丈にわたした。自分も一本を取って、かじりはじめた。−121−
「うっ、これはあまい!」
玄丈がとんきょうにさけんだ。
−122−
「売っている砂糖ほどじやないが、でもあまいですよ。」
「うん。まあどうにかのう。秒精屋の店先を、かけ足で走ったぐらいのあまさはあるのう。」
源内は興奮しない。
「早くしるを取って、煮てみましょう。うまく砂糖ができるかもしれませんよ。」
「まあ、あわてるな。刈り取りが終わってから、ゆっくり製糖にかかろう。」
「でも、製糖のしかけも、きょうはもうできあがっているはずですよ。」
いままでのなにを実験したときよりも、玄丈は甘蔗に熱心である。
「うん。しやあ、あす、さっそくやってみるか。玄丈、浜吉にいうて、なるべくおとなしいうしを一匹、あすは借りてくるようにしとけ。」
「はい。」翌日はいよいよ、砂糖作りの第一歩にとりかかった。お花畑の甘蔗園のそばに、番小屋が一軒、たてられていた。その一部が、だだっ広い土間になっていて、そこに奇妙な道具がすえられていた。 まるでふろおけを二つ並べたように、大きなつつ(筒)が二つ、密接して並んでいて、そのつつの一つからは、太い心棒が上につき出ていて、その心棒から横に、長い木の取っ手が出ている。取っ手は先のほうが下にまがって、人間の腰の高さあたりまでさがっている。ニつのつつの一つには、大きないぼのような木の凸起部が、ぐるりと並んでつけられている。そして、もう一方のつつには、その凸起部とぴったり合うように、ぐるりと四角な小あながあげられている。
つまり、取っ手を回すと心棒が回り、いぼとあなとはかみ合って、二つのつつがぐるぐる回るしかけだ。
「さあ、はじめよう。浜吉、うしをつなげ。」
源内がいうと、浜青は農家から借りてきたうしを、その取っ手につないだ。
「玄丈、したくはできているなあ。」
「はい。」
玄丈は、二つのつつの合わせ目の前にすわっている。横には50センチほどに切りそろえた甘蔗が、山と積まれている。
「いいですか、回しますよ。」
浜吉はいって、うしを迫って、ぐるぐる奇妙な機械のまわりを回りはじめた。同時に二つの木のつつが、ごろごろごろと回転をはじめた。
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玄丈は甘蔗を2、3本ずつにぎると、その回っているつつとつつとの合わせ目へはさみこむ。つっぱ二つとも、接触点では奥のほうへ動いているわげだから、甘蔗はすいこまれていき、二つのつつに両方からしめつけられて、バリバリと音をたてて、押しつぶされる。しばらく奥まで差し入れてから、玄丈は廿蕪を引きもどす。
「何回しばりますか?」
「さあ、最初はまあ二回ぐらいにしておこうか。」
「はい。」
ご玄丈は、ひとにぎりの甘蔗で、同じことを二度くりかえしたが、引き出した甘蔗を見て、
「手ぬぐいでも、ひねってしぼると水がたくさん出るでしょう。その要領で、も一度やってみましょう。」
そういって、ずたずたになっている廿庶の束を一つにして、手ぬぐいをしぼるようにぐいぐいひねってから、も一度差し入れた。
その間にも、うしは回りつづけ、二つの木のつつは回転を続けている。
「もういいだろう。つぎのをやれ。」
「はい。」
ご玄丈は、甘蔗のくたびれたなわをすてて、また新しい2、3本をつかむ。
−−甘蕪から、糖汁(とうじゅう)をしぼり取っているのである。しぼられた糖汁は、二つのつつのあいだから流下して、下にすえられたおけの中に流れこんでいく。−124−
すこぶる原始的な、ぶかっこうな機械だが、それでも半日たゆまずにやると、水そうにいっばいちかく糖汁が取れた。
「きょうはこのくらいにしよう。昼休みのあとで、こんどは釜をたくことにしよう。」
源内がいって、休憩になった。
めいわくなのはうしで、こんなへやの中をぐるぐる半日も回らされたら、人間なら目が回ってしまうかもしれない。
そのうしも、浜吉に連れ去られて、水をのみ、かいばをもらっているらしい。
さて、午後は釜たきであった。
まず、おけに布を張って、その布でこしながら、糖汁を別のおけに移す。こうすると、ちりが全部取れて、糖汁がきれいになる。
それをいくつかに分けて、その一つを釜に入れて、たくのである。しぼり室の隣の土間が、釜場になっていた。しかし、たくといっても、『その火は、きつい火がよい。弱い火ではいい砂糖ができない。』と書物には書いてあるが、さて、どの程度を強い火というのか、それも経験がないのでわからない。
「だいぶ煎(せん)じつめてから、はまぐりの粉を入れるというのだが…・どうだ、もうぼつぼつ入れてみるか?」
「はい。」
それもまた適量があるわけだが、最初からはわからない。しかし、玄丈はすごく張り切って、すこしの変化も見落とすまいと釜をにらんでいる。
「どうだ、煎じつまったか?」−125− 「はい、多少はねばりが出てきました。」
細いたけの棒で、玄丈は釜の中をかきまぜている。しかし、なかなか粘液とまではなってこない。
「どこまで煮つめたらええのか、弱ったなあ、おれにもわからん。」
源内は苦笑しながら考えていたが、やがて、
「よし、方針をきめたぞ。−−その分はそれぐらいで、おけに移しておけ。どの程度のねばりぐあいになっているか、正確に記録を取っておくんだぞ。つぎの釜はもっと煮つめる。そのつぎはいっそう煮つめる。そしてみな、記録を取っておく。そんなぐあいに、何度でも試験してみよう。火のほうもそうだ。強い火、いっそう強い火、弱い火、いっそう弱い火−−、いろいろやってみるのだ。そしてすべて記録を取り、いちいち製品に明細を書きいれて、別々に保存しておくのだ。それをくらべあわせれば、自然にいちばん正しいやり方がわかるはずだ。−−何日かかっても、何か月かかってもいいじゃないか。」
現代でいう『試行錯誤(しこうさくご)』の方法である。新しい技術を試みるのには、これよりほかの方法は、今日でもない。
「そうしましょう」
玄丈は張り切っている。
よほど砂糖作りが気にいったとみえて、どんなにめんどうな方法をいいつけられても、すこしもいやがらない。
煮つまった糖汁を、おけに移して番号をつけ、その番号についての明細を、帳面に書きいれる。それからまたつぎの実験に移る。−−玄丈は着々とやっている。
「平賀さん。」
3、4日たって、玄丈が浮かぬ顔で源内のへやに来た。
「なんだ。うまい砂糖ができたのか?」
「それがそのう……。」
玄丈は泣きっつらで頭をかいた。
「いっこうに砂糖らしいものはできんのです。いつまでたっても、どれもこれもべとべとの水です。」
「気にするな。どうせ3年や4年はかかるんだ。けんどすこしは、あまいことはあまいのか?」
−126−
源内は笑っている。「はい……いいえ。あまいといえばすこしはあまいですが、あんたのいわれたとおり、砂糖屋の表をかけ足で走ったくらいです。」
「そうか、それは弱ったろう。」
ひとごとのようにいって、源内はなおも笑っている。薩摩以外には成功したところがないという砂糖作りを、源内は最初から、そんなに『あまく』考えてはいなかった。数々の苦労があって、成功はそのあとにくるものなのだ。
「では、欠点を追究してみることにしよう。たき方が悪いのか、そのあとの処理が悪いのか。それとも、しぼり方が悪いのか。あるいはまた、そもそもこんどの甘蔗自体が、あまりよくない品種なのか。あっ、そうだ!」
そこまでしやべってから、源内はふと笑いを消した。おそろしいほどましめな表情になって、
「玄丈、わしはやはり長崎へ行くぞ!」
不意に、源内はいった。
「ええっ、長崎ヘ?」
「そうだ。これは技術も悪いにきまっとるが、甘蔗自身も、絶対に優良品ではないと、わしはいま気がついたんだ。」
「それで……長崎ヘ……?」
「そうだ。わし自身が選んで、良質の蔗苗(しゃびょう)を手に入れてくる。それよりほかに、讃岐でほんとうに優良な砂糖をこしらえる方法はない!」
それから源内は、腕を組んでだまりこんでしまった。
その源内を、女丈もだまって、じっと見つめつづけた。
(このお人は……天才なのだ!)玄丈は思った。
(あんなに緻密に……常人には考えつきもしないような緻密さで研究を続けているかと思うと、この人はある一瞬、ひらめくようにするどい結論に到着する。それはわたしなどにはおよびもつかぬことだ−−。)
(このお人を助けて、わたしは手足になって働くのだ。このお人の天才のひらめきの、わたしは忠実な実施係りとして・…。)
そのとき、まるで玄丈の気持ちをかがみに写したかのように、源内がぼつんと、
「根気だなあ。」
といった。−127−
「はあ?」
「うん、一面では根気だ。−−敵の本陣を一気について、最高の獲物を取ってこなければならんが、その一面では根気だ。−−その獲物をどう処理するか、一面では根気よく調べておかんといかん。」
それから、凍ったようなきびしい目で、玄丈を見つめて、
「おまえは廿庶の仕事にたいそう熱意があるようだが、何年も何十年もかかって、その研究をまとめあげるだけの根気があるか?」
詰問するようにたずねた。
「はい!」
玄丈は、力んで答えた。
「あります。わたしは何十年でも、やってみる根気があります。」「だいいち、おまえはこの仕事が好きか? 一時の気まぐれではなく、おまえは砂糖づくりという、ただ一つのことに長く愛情を感じ、興味を持ちつづけることがでぎると思うか?」
「できます。それはわたしの性質に向いています。」
玄丈は、いっそう力んで答えた。
「特に砂糖は……わたしは甘いものが好きなのです。わたしは甘蔗の栽培と砂糖の製造のために、わたしの一生を、この仕事だけにささげてもよいと思っています。」
源内はじっと目をつぶって、しばらく考えていたが、やがて、
「よしっ!」
と、一言、強くいった。
「やってみろ、玄丈。わしは長崎へ行って、必ず優秀な蔗苗を取ってくる。それまでのあいだ、おまえは地道に、不良品かも知れないこの甘蔗を材料に、甘蔗と砂糖の研究を積み重ねておくのだぞ。」
「はいっ!」
「わしは、やらねばならんことが、ほかにも山ほどある。砂糖では、おまえが主任で、わしが助手だ。ええなあ、玄丈。」
「はい。わたしは不器用ですから、生涯をかけまして……。」
と、この温和な青年が、はしめてたかぶった表現でいった。
−−後年になって、讃岐三白の一つといわれ、塩・木綿をしのぐ最高の特産品になり、年間二十数万たるを産するようになる讃岐の砂糖業は、池田玄丈によって完成されたものだが、その基礎は、こうして、このときに置かれたのであった。−128−