第三部 世界に開く眼長崎留学
源内は、長崎へ行くと宣言したけれど、そんなに簡単に行けるはずがなかった。
あくる日からはまた、そのことばはわすれたかのように、玄丈たちをさしずして砂糖の試作に没頭した。
その年は、満足な砂糖はできなかったけれど、赤黒い砂糖らしいかたまりが、何十個かはできた。
横道百太夫を通じて、西尾縫殿に献しると、西尾は、
「できたか。ついにわが讃岐に砂糖が生産されたか!」
まるで、何百たるも産出されたかのように、おおげさに喜んでくれた。
縫殿から、さらに頼恭に献じたが、頼恭はその場で一口かじって、
「なるほど、砂糖のごときものであるぞよ!」
ひどく甘みのうすいこの砂糖を、そういって、殿さまらしくおうように評価した。
正月に志度に帰るときに、役得(やくとく)ですこし持っていって妹の里与にやると、
「あにさんの砂糖、ああまい砂糖。あまいけど、だいぶお水でうすめた砂糖ーー。」
歌を歌うようにいって、兄と玄丈の苦心の作品をからかった。
いちばん喜んでくれたのは、ゆきだった。
「まあ、もったいない。こんなごりっぱなお砂糖が−−。」
かわいい手で押しいただいて、まるで自分が作ったかのように、父や長兄に見せびらかしてから、母と二人であんころもちを作ってくれた。
「まあ、あまいこと。どうぞおあがりまあせ。」
源内と玄丈に、いちばん先に持ってきたが、食べてみると、ほんとうにあまかった。ふたりを激励するために、だいじにとってあるオランダ砂糖をたっぶりまぜたのであろう。
(ゆきさんて、姿も美しいが、心も美しい人だなあ。)
源内は、そんなゆきのふるまいを、涙ぐんて見た。
こんなにしてはじまった宝暦元年という年は、砂糖作りは二年めだが、玄丈にとっては、自分の生涯の事業と決心してから最初の年であった。−129−
春になり、夏になり、その年は甘蔗はすくすくと伸びて、前年よりはだいぶできぐあいがよさそうだった。
刈り販り、しぼり、煮つめ−−と、玄丈は前年とは比較にならねほど慎重にやっている。
源内は、約東どおり甘蔗は玄丈を主役にして、自分はいろんな輸入薬草の研究や栽培にうちこんでいる。
玄丈は、前年源内に示されたとおりの方法で、いろんな『試行錯誤』をくりかえしていたが、その年も押しつねまったある夜、とうとう音をあげてきた。
「平賀さん、やはり、うまくいきません。やはり、あまくなりません。」
「だから、いっといたじゃないか。はじめから、うまくいくはずはない、一生の仕事だと。朝鮮人参にしたって、いまだに、さっぱりという成績なんやぞ。」
「はい。−−げれど、どのやり方でも、すこしもあまくならんのです。」
「がんばれ。途中で泣き言いうようなやつは、わしはきらいだ。」
源内は冷たくつきはなした。
しかし、源内は口では冷たくいったが、なにか懸命に考えふげっているようであった。それから年末まで数日のあいだ、まゆのあいだに縦じわをよせて、源内のにがい、ふきげんそうな顔がつづいた。
やがてまたお正月。宝暦2年(1752年)。−−源内は数え年二十五になった。
その正月も志度に帰ったが、源内のふきげんはなおつづいて、ほとんど一室にとしこもったきりで、なにかを考えつづけていた。ところが3日の早朝、
「そうや、年賀のあいさつになら−−取り次ぎなしに参上してもかまわんはずや!」
ふと、ひとりごとをいったかと思うと、源内の顔が、何日ぶりかでぱっと明るくなった。
「里写、役所の用事で高松へ行く。したくしてくれ。」
さけぶようにいうと、あきれ顔の家族をろくに見向きもせずに、源内はいそいで身したくして家を出た。
まっすぐ高松へ。そして足は、まっすぐ家老の西尾縫殿の邸に向かった。
「薬園係の平賀源内です。お正月のお喜びを申しあげにまいりました。ご家老さまにお取り次ぎねがえませんか。」−130−
足軽が、家老に直接、年賀のため目通りをねがうというのは、まったく異例であった。むしろ非常識といえた。
けれども門番の老人は気のいい人のようで、ともかく取り次いでくれた。縫殿はひまだったとみえて、許しが出て、庭先に通された。
「ご家老さま、新しい年を迎えまして、おめでとうございます。」
「ああ、おめでとう。去年はそちもよく勤めてくれたなあ。」
縫殿はじょうきげんに答えたが、
「ところで何用じゃ。わしのところへ押しかけてきて−−。」
と、こんどはきびしい調子でたずねた。
「はい。以前おねがい申しましたが、ぜひいそぎ長崎へ行かしていただきたく……、無礼は承知で直訴に参上いたしました。」
「なに、いそぎ長崎ヘ……直訴……? どういうわけじや、申してみよI」
縫殿は、この人と思えぬほどのおそろしい目で、源内をにらみつけた。むりはなかった。身分制度の厳格なこの時代に、足軽である若者が、だれにも連れられずに、家老に直々(じきじき)の願いに押しかけるとは、言語道断(ごんごどうだん)のふるまいといえた。
「はつ!」
源内は平伏したが、やがておそれげもなく顔をあげた。
「おそれながら−−かねてご家老よりたまわりました甘蔗につきまして……。」
−−それが、ご家老のご苦心に対しては、たいへん申しにくいことだが、おそらくは粗悪品で、とてもまんぞくな砂糖はできまいということを、源内は物語った。
「薩摩としては国禁のもの、何ぺん人にたのんでも、とても優良品種が手にはいる見こみはないとぞんじます。」
「それで−−?」−131−
「原苗が悪くては、いつまでたってもよい砂糖はできません。それで、わたくしが長崎へ行って、薩摩がだめなら琉球からでも、あるいは異国船にたのんで直接南洋からでも、最上のものを待ち帰りたいと考えるのです。」
「うむ−−。」
縫殿はしばらく考えていたが、それでは国禁の抜け荷(密貿易)になるおそれがあるが、と反問した。
「いささかも、かまいませぬ。」
と、源内はきっぱり答えた。
「大義のまえには……形式的な法律などは……。また万一の場合の責任は、源内一身にて負いたく……よって、かくのごとく……。」
高松藩内を豊かにするという大理想のためには、小さな形式犯などは平気だというのであった。また万一罪に問われても、藩内のだれにもめいわくをかけたくない。源内ひとりが切腹すればすむようにしたい。そのために、だれにもたのまずに、こうして直接お願いにきたのだと、源内は述べるのであった。
「お殿さまからは、他の研究課題が命ぜられましょう。万一、抜け荷のことなどは、源内ひとりの不心得にて……。」
と、源内は、藩にもまためいわくをかけない旨をいい添えた。
「うむ、たしかに聞いた。」
縫殿はうなずいた。
「だが、そちの申したこと、もはやわすれたぞ。さがってよい。」
笑ってそういい残して、縫殿は座敷にひっこんでいった。
源内は、まだ休みが残っているので、その日は玄丈の家でとまった。しかし玄丈にも、縫殿と会ったことは一言もいわなかった。
源内が行くと、ゆきがさもうれしそうに、なにくれとせわしてくれる。−132−
ゆきはすでに二十一歳。当時としてはとっくに嫁にいっている年齢だが、評判の美人なのに、どんな縁談(えんだん)があっても嫁入りしようとしない。
(ゆきさんは、おれのお嫁になるつもりなんだ。だから、どこへもいかないんだ。−−そうだ、もし長崎へ行けたら……、そしてぶじに帰れたら、すぐお嫁にもらおう。いや、長崎へ出発するまえに、玄丈にだけは話しておこう!)
源内は、そんなゆきがかれんに思えてならず、心の中でそう誓っていた。
やがて夏−−甘蔗が子どもの背たけより高くなる。
やがて秋−−甘蔗はおとなの背たけほどになり、赤とんぼが、その畑に群れ飛んで、きれいだ。
そんな秋の初めのあるお昼ごろ、構道百太夫が息を切らして薬園の事務所にかけこんできた。
「源内、おまえは果報者(かほうもの)だぞ!」
百太夫はさけんだ。
「お殿さまから、命令があったのだ。長崎というところへ行って、西洋の学問を勉強してこい、との御意なのじゃ。いそいでしたくをせよ。」
「はい、しかし……。」
と、源内は、とぼけた。
「おことばはありがたいですが、いそいでと申されても甘蔗の刈り入れがありますし、砂糖の製法も、いまひとつ、はかばかしくまいっておりませんので……。」
「なにを申す!」
百太夫は青筋をたてた。
「甘蔗などはほうっておけ。玄丈にまかしておけばよい。ただいまから、ただちにしたくにとりかかれ!」
「はいっ。」
源内も人の悪いところがある。心の中では、にやりと笑っていた。老人の心埋などというものは、たいていは幼児ににたもので、第一反抗期みたいに、行けといえば行かぬといい、行くなといえば行くという……。そこのところのこつさえのみこめば、百太夫老人などはきわめてあつかいやすい人なのだ。
「では、おことばにあまえまして……。」
源内は仕事を打ち切って、宿舎に帰った。べつに整理というほどのこともない。ー133− 書物はこのまま残して、玄丈に利用させておけばよいし、衣類などは玄丈が持って帰るだろう。いずれ、玄丈の母と、ゆきとで、ほどいて洗って縫って−−源内が長崎から帰ったときには、新品同様になっているだろう。 玄丈はその日も、お花畑の甘蔗園で汗を流して草引ぎをしていたが、横道老人から源内の長崎留学を知らされて、いそいで薬園に帰ってきた。
(あのお人は……わたしのために……わざわざ長崎まで行ってくれるのだ!)
むろん、それだけでないことを玄丈とても知っていた。長崎留学は、長年の源内の夢なのだった。しかし玄丈は、源内がまるで玄丈のために、甘蔗を手にいれる目的だげのために、長崎へ行ってくれるように思えてならなかった。
薬草園へ帰る道々、玄丈はなみだを流していた。
しかし、源内の顔を見ると、玄丈は顔じゆうを笑いにくずし、目をきらきら輝かして、大声でお祝いをいった。
「うん、うまくいった。本も衣類も、このままにしておく。仕事のことは、なにも特別に話すことはない。すべておまえが気っていることだ。たのむぞ。」
「まかしといてください!」
威勢(いせい)よく、玄丈は答えた。
源内は、すぐに志度(しど)に帰って、母やおばばさんや里与(りよ)に、長崎留学を告げてこようと思った。伝左衛門にも会って、るす中のことをたのんでおかねばならないし、恩師である松岡春房や周峯にも報告せねばならない。
玄丈が、途中まで見送ってくれた。
「じつは……。」
「じつは……。」
道々、源内は、何度もいいかけては口ごもった。いつもはおちつきはらっている玄丈が、きょうは喜びにのぼせてしまって、話を早がてんして、すぐ仕事のほうへ持っていくからであった。
「じつは……。」
何度めかにそういったとぎ、玄丈は、それがべつの話であることに、やっと気づいた。
「なんですか、いったい?」
「じつは−−ゆきさんのことなんだが・…。」
源内がそういっただけで、玄丈の顔はみるみるうれしそうにまっかになった。−134−
「長崎から帰ったら・…・。」
お嫁さんにもらいたいと、どもりどもり、やっというと、玄支は飛びあがった。
「待っとりますとも! あなたが長崎から帰られるまで、ゆきば何年でも待っとりますよ。あなたがそういってくださるのを、しつはゆきのやつ、三年も四年も前から、待ちかねとったんですよ!」
玄丈の顔は、くしやくしやであった。
しかし、恥ずかしいから、船が出てしまうまでは、ゆきさんのほかは、両親にも話さないでくれと、源内はたのんだ。
−135−
「いいですとも。志度のほうは早く切りあげて、船が出るまでわたしのうちにいてください。」
牟礼(むれ)のあたりで、ふたりは別れた。夕暮れの道を、玄支は走るように高松へ帰っていった。一刻も早く、ゆきに源内のことばを伝えたいのだろう。
源内も足を早めた。
秋の日は、つるべ落としという。
いままで赤とんぼの群れ飛んでいた晴れた空は、たちまち夕焼けてきて、西の高松のあたりは、まっかにそまっている。八栗(やくり)山の頂上だけが、ひときわ明るく、近くに見える。
日はたちまちに暮れ、たちまちあたり暗くなはる。
−−夜にはいってから、源内は志度に帰りついた。
志度には、一日しかいる暇がなかった。源内はいそいで松岡春房や周峯や伝左衛門をたずねて、あいさつした。
源内の長崎留学を聞いて、気の弱い母は心細げだったが、おばばさんは、
「おお、行ってこい。長崎へでも江戸へでも、唐天竺へでも行ってこい。しっかり勉強して、日本一の学者になるんじゃ。そもそもおまえのご先祖の平賀源心さまは……。」
例によって、気強く励ましてくれた。しかし、もう九十になっていて、寝たっきりだった。多少もうろくしていて、話はくどい。
里与はむじやきで、長崎のおみやげにオランダのめずらしいお人形をたのむというばかりであった。春房も周峯も喜んでくれたが、伝左衛門をとうと、その喜びはひとしおだった。
「平賀くん−−。」
と、彼はいった。
「長崎へ行けば、加賀屋の出店(でみせ:支店)がある。きみといっしょに、子どものころ行った、あの大阪の加賀屋の出店だ。−−わたしが紹介状を書くから、ぜひ加賀屋へ行きなさい。番頭がいるから、いろんな役にたつだろう。勉強のほうも薬種集めのほうも、きっと手づるをつけてくれる。それに……。」
伝左衛門はちょっとためらったが、
「失礼だが−−率直にいって生活のほうも−−藩からの仕送りだけでは不自由だろう。加賀屋でめんどうをみるように、わたしからいっておくから−−。」
えがおでそういった。−136−
ねがってもない、ありがたいことだった。藩からの学費だけでは、どうせ本など十分には買えないだろうと、源内はアルバイトを覚悟していた。
ところが、加賀屋は大きな問屋だし、伝左衛門の姉のおゆらさんの夫が、すでに当主になっている。ほかならね伝左衛門からの依頼とあれば、加賀屋ほどの大問屋にとって、居候(いそうろう)ひとり置くくらいはなんでもない。
「ありがとうぞんじます。わたしとしても、わたしの学問でお役にたつことがあれば、できるだけ加賀屋さんにお手つだいしましょう。」
「そうしてくれれば喜ぶだろう。」
あとはふたりで酒をくみかわして、おたがいの理想を語りあった。
このころの長崎留学ということは、実際たいへんなことであった。
また、このころ(宝暦年間:1750年代)の日本と西洋との科学文明の開きというものは、今では考えもできないほどの、おそろしい差であった。
源内にしても、正確にはなにも知らずに、ただばくぜんと西洋の自然科学なるものにあこがれていたのだが、具体的にいうと、この時代のヨーロッパでは、医学では解剖(かいぼう)学が常識になって、人体構造の研究が進み、複顕微鏡(ふくけんびきょう)などはとっくに(1590年)発明されていた。
血液循環(けつえきじゅんかん)の理がわかったのは、1616年だし、赤血球が発見されたのさえ、百年も前の1657年である。1660年には、毛細血管(もうさいけっかん)が見いだされている。体温計が発明されて、病気の診断に的確さをくわえたのも、ほぼその時代である。
1662年には、英国ではロンドン王立協会が設立され、1700年には、ドイツにベルリン・アカデミーができて、ともに科学の振興につくしている。
生理学や生物学に、顕微鏡が持ちこまれたのもこの時代で、1665年には、イギリスのロバート・フックが細胞を発見、オランダのレーウェンフックは1683年に、バクテリアの発見を発表している。
臨床(りんしょう)医学では、1718年にドイツの名外科医ハイステルによって、すでに気管切開手術さえ行なわれている。これらはいずれも、源内が生まれる十年もまえまでのヨーロッパの自然科学−−主として医学の業績の一小例なのだが、同じ時代の日本を考えてみると、比較にもなにもなるものではなく、自然科学はまったく、ゼロにひとしいというよりしかたがなかった。源内の夢が、長崎留学に無限にふくらむのは当然であった。
「船の出るときには、一両日前に知らせてくれ。里与を連れて送りに行く。」
伝左衛門がいった。源内は伝左衛門の数々の好意に感激して、加賀屋への紹介状をふところに、渡辺家を辞した。−137−
船出(ふなで)が明朝ときまった日の夕方、源内が玄丈と雑談していると、約東のとおり伝左衛門が里与を連れでやってきた。
「やあ、おじやまします。」
伝左衛門は闊達(かったつ)にいって、玄丈にすすめられるままに客間にあがった。
やがて、玄丈の父の玄岳もやってきて、四人でよもやまの話になった。
里与は玄関でゆきに迎えられ、ゆきのへやへ行ってしまった。
客間へは、やがて酒が運ばれて、歓送の宴になった。
伝左衛門は見聞が広く、話題が豊富なので、席はひとしお明るく、にぎやかだ。
酒がまわって、四人がほんのりほおを赤らめたころ、ゆぎが母親につれられて現われた。うしろには里与が、にこにこ顔でついている。
「平賀さま。」
母親がいった。
「おめでたいお門出(かどで)のお祝いに、ゆきが旅着を縫いました。粗末(そまつ)なものですが、どうぞこれを召して旅立ってください。」
うしろのゆきが進み出て、ささげてぎた幾重ねかの衣服を、源内の前に置いておじぎした。
「それは……どうも申しわけありません。」
源内はどぎまぎしたが、遠慮してもしかたがない。
「ありがたくちょうだいします。」
ゆきと母の前に手をついて、礼をいった。
「あにさん、にあうかどうか、着てみたら?」
里与は子どもである。むじやきに、遠慮のないことをいった。
「そうだそうだ。せっかくのご好意だ。平賀くん、着てみろ。」
伝左衛門がけしかけた。
「では遠慮なく−−。」
源内は衣服を持って隣室にはいった。ゆきがかいがいしく着せかえた。
衣服は粗末などころか、源内には、生まれてはしめて着るような、りっばなものだった。
じゅばんから、着物から、帯から、羽織から、それにはかままで、全部新調であった。縫い方も手ぎわがよく、源内のからだにびったりあった。
「まあ、おにあいですこと。」
「あにさん、お殿さまみたいに、えらそうになったわ!」
母と里与とが、同時にいった。−138−
「かたしけのうございます。」
ご源内は、悪びれずにいった。
そのうちに、玄丈の兄の玄賀も往診(おうしん)から帰って、いっそうにぎやかになった。
「いや、じつはのう、渡辺どの−−。」
もう、まっかになって、じょうきげんの玄岳が、改たまって伝左衛門にいった。
「これは内輪の話じやが……、源内どのが長崎から帰られたら、ゆきを嫁御(よめご)にもろうてもらおうかと思うてのう。ゆきはもとより、源内どのも、おいやではないようすなのじやが−−そのうち、あんたから、志度のほうのお気持ちも、聞いてもらえんもんじやろうか。」
「いや、一も二もござらん。だいいち、わたしが賛成です。この席で内祝言(うちしゅうげん)させでもよろしい。それに……志度のほうをそのうちにというても、あすには母御にも、こわいおばばさんにも知れわたりますぞ。−−それ、そこに口の軽いのが聞いておる。」
酒の回(まわ)った伝左衛門は、愉快そうに里与を指さした。
「まあ、渡辺のおじさんっ、わたし、口軽じゃありません!」
里与がまっかになっておこったので、一座は緊張がとけて、どっと笑った。
源内は、突然に表面に出た話なので、はじめはてれたが、もともと自分の意志なので、悪びれずに、その話をお受けしたいと答えた。ゆきのほうは、恥ずかしいばかりで、まっかになってうつむいている。
「源内、それできまった。お祝いじゃ、一ばいいこう。ゆきどのもおいでなさい。さあ、わたしのお祝いじゃ!」
伝左衛門は、さかずきを取ってふたりに酒をついだ。
「志度との話は、たしかにこのわしが引き受けた。」
そして、自分もさかずきをあげて、乾杯(かんぱい)した。
「よろしくおたのみします。」
源内がいった。
「わたくしこそ、ふつつか者でございますが…。」
ゆきの声は、消えそうに小さい。
「うん、二重にも三重にもめでたい。もっともっとごちそうになりたいが、わたしは高松に、ついでの用件があって、他家へ回らななりません。明朝は送りにまいりますから……。」−139−
伝左衛門が立ちあがったので、歓送の宴はお開きとなった。
その夜は玄丈とおそくまで話したが、翌朝は暗いうちに起きた。
いよいよ船出の朝である。源内にとっては、二度めの船の旅だ。幼いころの浪華行きは、伝左衛門の桃吉といっしょだったが、こんどはひとり旅である。
幼いときの浪華の旅は、単に広い世の中を見たい、めずらしいものを見たいという好奇心ばかりだったが、こんどの旅は、はっきり学問のための旅だ。
しかし考えてみると、どちらの旅行目的も知識欲が基礎になっていて、その点ではかわりがない。
里与はそのまま池田家にとまり、久しぶりに兄と床をならべて寝ていたので、いっしょに起床した。ゆきと母とはすでに起きて、朝食のしたくをととのえている。そのうちに、玄丈も父も兄も起き出てきた。
「さあ、めでたい朝だ。」
玄賀がいった。
「平賀さん、思いきり勉強してきてくださいねえ。それから・…こ甘蔗のいい株もたのみますよ。」
玄丈は、砂糖の虫である。この朝になっても、甘蔗のことをわすれない。
「ああ、引き受けたよ。」
源内は笑って答えた。
玄丈の両親と見とに、門口まで送られて、源内と里与は池田家を出た。玄丈とゆきとが、港まで送ってきた。 船着き場には、渡辺伝左衛門がすでにきて、待っていた。店のわかい者をひとり連れていて、そのものに、かなりの大きさの布包みを持たせていた。
「平賀くん、これはせんべつだ。」
伝左衛門がいった。酔ってきげんのよいときには、昔のくせで、こら源内とか、こら嘉次郎とか大声でいうが、ふだんは源内をおとなあつかいにして、平賀くんとか、源内どのとかいってくれる。
「本が何冊かと、着がえと、当座のこづかいを入れてある。遠慮せずに便うてくれ。」
「なにからなにまで、ほんとうに……。」
そのうちに、あたりがしだいに明るくなって、船の出る時刻がせまった。もう晩秋で、明けがたの風はかなり冷たい。里与はゆきと手をつないで、さすがにさびしげに、秋風の中の兄の姿を見つめていたが、−140−
「あにさん、ほんまにりっぱ! そのおヘベ、ようにあう!」
さしそめた陽光の中を、兄にかけよってきて、大声でいった。
「そうか−−ご源内はゆきから贈られた自分の着衣をしげしげと見ていたが、腰から矢立てを抜き、包みを開いて短冊(たんざく)を取り出すと、
−−秋風や
うけ心よき
旅衣
達筆に書いて、つかつかとゆきの前に進んだ。
「ゆきさん、ありがとう。−−これ、わたしだと思うて、待っていてください。」
「はい−−。」
ゆきば受け坂って、短冊を読んだが、源内の感謝の気持ちが心にしみたのか、なみだぐみながらほほえんだ。
−−秋風の中を、船は高松の東浜(ひがしはま)港を出ていった。−141−