ホームページに戻る|

西欧の文化


 晩秋の安定した天候のせいで、航海はおだやかだった。
 玄界灘(げんかいなだ)では多少ゆれたが、そうひどくはなかった。
 源内が長崎に着いて、加賀屋の出店をおとずれたのは、それから十日ばかりあとのことだった。
「おたのみします。」
 店にはいって声をかけると、十五、六歳の小僧が出てきた。
「西国の高松からきた平賀源内という者だが、この手紙を、この店の主(あるじ)にわたしてください。」
「へえ。」
 小僧は、すぐひっこんでいった。
 店とはいっても、ベつに商品は置いてない。がまえも小さくて、ふつうの住宅とかわらない。たぶんこの店の主任である加賀屋の番頭とその家族と、店員といえば小僧がひとりかふたり、いるくらいのものだろう。商品を納める倉庫があるにしても、それは裏庭なのだろう。
 待つまもなく、四十がらみの小ぶとりの男が現われた。
「お待たせ申しました。わたしがこの店をあずかっております加賀屋の番頭でございます。かねて志度の渡辺さまから大阪の主人を通じましてたよりがありましたので、お待ちいたしておりました。」
 ていねいにあいさつした。
「申しおくれました。わたしが平賀源内です。」
 源内は、丁重にあいさつを返した。それからしばらく番頭の顔を見つめていたが、やがて首をひねって、
「まちごうたら失礼ですが……あなたはもしや、松造(まつぞう)さんとおっしやるのではありませんか?」

−142−


 番頭はおどろいた顔で、 
「ヘい、わたしは松造でございますが……、どうしてごぞんじで?」
 源内はにこにこ笑った。
「わたしは四方吉ですよ。志度の白石四方吉ですよ。−−10年あまり前に、桃吉さんとごいっしょに大阪のお店へうかごうて、あなたに案内していただいた……。」
「白石四方吉さん−−?」
 松造はしばらく考えていたが、
「ああ、あのときの……。」
 きゅうに表情をくずして、顔いっぱいに笑った。
「すっかりお見ちがえしておりました。これはまたごりっぱになられまして……。平賀源内さまという、たいそうな学者が見えられるとうかごうていましたので、すっかりぞんじまへんでしたが、そうですか、あのときの四方吉さんでしたか−−。」
 手をとらんばかりに、源内を座敷にあがらせて、奥の間に案内した。
「そうでしたか、それはなによりうれしいですなあ。どうぞご遠慮なく、何年でも滞在して、思うぞんぶんに勉強してくださいまし。」
 源内のほうこそうれしかった。
 いくら伝左衛門の弟同然(どうぜん)といっても、この店の主任がいじわるだったら、やはりせわになってはいられない。松造が番頭になり、長崎の出店の主任をしていようとは、考えさえもしなかった幸運だった。
「離れの八畳をおへやにしてあります。2、3日はゆっくりご静養なさってから……。」
 松造はますますじょうきげんであった。


 多少は旅のつかれもあったので、源内は松造のいうとおり、一両日はゆっくり静養した。それから長崎の町を見物した。十二、三年前と同じように、こんども松造が案内してくれる。
 松造は、一年じゅう、いつもいそがしいというわけではなかった。前にも述べたことだが、加賀屋は唐反物(からたんもの)問屋であり、五箇所商人(ごかしょしょうにん)といって、長崎へのオランダや清国などからの舶来品を買うことのできる、特別の資格を持った商人である。

−143−


「ごぞんじと思いますが、異国の品物は、われわれが直接に買うわげではないのです。」
 町を見物しながら、例によって松造は、いろいろ説明してくれる。
「長崎には、長崎会所(ながさきかいしょ)という役所がございます。元禄11年(1698年)にできた役所ですが、それが奉行所の監督で舶来品は全部一手に買い取るわけです。それを、わたしども五箇所商人が、それぞれ専門ごとに入札いたしまして、落札した者が買い受けるしくみになっておるんです。」
「じやあ、目ききがたいへんですねえ。」


「それはたいへんですが、でも、それが仕事ですからねえ。30年近くもやっておるわけですから、だいたいのことはわかりますよ。−−清国やオランダの船といいましても、一年のうちにくる隻数はきめられていますし、時期も前もってわかるわけです。だから、一年じゆうここにおらんでも、必要なときに大阪からきてもええわけですが、加賀屋ではご主人が、勉強になるからとおっしやって、こうしてわたしどもが交替で長崎につめておるわけですよ。」
「じゃあ、おひとりで?」

−144−



「へい。1年か2年の交替ですから、みなこうしてひとりでぎとります。小僧がふたりと女中がおりますので、不自由もおまへん。」
 長崎は坂の多い町だが、最初の高い丘にのぽったとぎに、松造が海を措さしていった。
「ごらんなさいませ、あの島−−。」
 源内が見おろすと、両側からまるく岬(みさき)に囲まれた長崎の内海のいちばん手前のほうに、扇のような形をした奇妙な鳥があった。島の手前はすぐに町で、橋が一本だけ、扇の中央めがけてかけられている。
「出島(でじま)ですか、あれが有名な?」
 源内がいった。
「そうです。あれが出島(でじま)です。日本の国の中で、たった一か所、異人さんの住んでいる場所ですよ。−−寛永13年(1636年)といいますから、いまからざっと百三十年ほど前に、海を埋(うめ)め立ててこしらえた島だそうですよ。はじめはポルトガル人がいたのですが、吉利支丹(キリシタン)宗門のご禁制(きんせい)で、ポルトガル人は国外に立ちのきました。かわりに吉利支丹(キリシタン)には関係しないと約束しているオランダ人が、それまで平戸(ひらど)に居住していたのが、移ってきたのだそうです。」  源内はながめ続けた。なるほど人工の島らしく、きっちり扇の形そのままに、左右同形にできあがっている。
「あれで面積は3千9百69坪(約13,097平方メートル)もありまして、甲必丹(カピタン:商館長)や医師・書記・倉庫係など、オランダ人やその召し使いなど十何人かが住んでいるのです。中には黒人もいます。建物は四十軒ほどで、庭にはうしやぶた・ひつし・にわとりなども飼(か)うております。」
「あの高い建物の上に立っている、あの白いものはなんですか?」
「ああ、あの旗ですか。あれはオランダの国旗です。」
「行ってみたいですなあ、出島(でじま)に。−−なんとか行ける方法はありませんか。」
 あこがれの目で扇形の島を見おろしながら、源内がいった。
「まあ、あわてずに待ってください。ふつうでは一般の者は行けないのです。行けるのは役人のほかには、特別の商人と、許可を受けた給仕女だけなんですよ。−−でも、そのうちにはなんとか……。」
 松造は源内を見返って、自信ありげに微笑した。


 源内はそれからしばらくのあいだは、町を歩いたり本を読んだり、松造に話を開いたりして日を送った。
 長崎留学といっても、現在のような形の大学や専門の学校・研究所などがあるわけではない。勉強は自分で見学したり、本を読んだり、また直接に、それぞれの方面の専門家を見つけ出して、その人について勉強を進めるしかないのだった。

−145−


 だが、源内は基礎的な学問がしっかりしているので、まもなく長崎の歴史などについては、専門家に負けないくらいくわしくなった。
 そんなにして、どうやら源内がおちついたころ、
「まず、オランダ通詞(つうじ)の人に、ご紹介しましょう。」
 松造は源内を、吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)という人に引き合わせた。
 通詞とは、通訳のことである。オランダ通詞というのはオランダ語の通訳で、出島に出入りして、オランダ商館員と日本側の奉行所の役人や商人などとの通訳にあたるのだ。

 甲比丹(カピタン)と呼ばれる蘭館長(らんかんちょう)は、じつはオランダ東インド会社の支店長みたいなものだが、今日の大公使や領事のような、外交的職能も持っていた。原則として任期は1年で、これにしたがって医者や技師なども日本に来たり帰ったりする。
 もっとも医者の中には、かなり長い期間、日本にとどまった人もいる。しかし、交替が原則で、オランダ商館のつづいた二百年のあいだに、約百五十人の医者が交替した記録が残っている。
 おおぜいの中だから、優秀な人もいた。たとえばカスパル・スバンベルゲンという人は外科(げか)にたくみで、その医術はカスパル流外科と呼ばれて、日本にかなり広く行なわれた。
 またケンフェル、チュンベリーというふたりの医者は、日本人に西洋医学の手ほどきをしただけでなく、日本をよく研究して帰り、日本事情をヨーロッパに紹介している。
 こういう医者たちの通訳も、またオラソグ通詞があたるわけだから、通詞の中からはいろんな学者−−特に医学者が出た。例をあげると、西洋外科の祖といわれる西玄甫(にしげんば)や、人体解剖図とその説明をつくった本木良意(もときりょうい)、西洋外科医害を翻訳した楢林鎮山(ならばやしちんざん)などは、みな通詞の出である。
 もっとも、吉宗将軍の時代になってやっと蘭書のうち宗教に関係のないものの輸入が許されるようになったわけで、それ以前は科学書といえども輸入は禁止されていたのだから、通詞の中には、ろくにアルファベットさえ読めない人も、多くいた。たとえば、明治大正時代に、横浜や神戸の外人相手の人力車夫が、かたことの英語はしやべるが、文字は一字も読めなかったというようなことににているだろう。

−146−


 しかし、源内が紹介された吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)という人は、西・本木・楢林などという人々と同しように優秀な学者だった。通詞をするうちにオランダの医学を勉強して、蘭医として名を知られた。のちに日本の蘭学が栄えるのに大いに貢献した人で、松造が、源内にこの人を紹介したのは、なかなか目が見えたとほめられていい。


「西洋の文字を知り、ことばを知り、書物を読むということは、もちろんたいせつなことですが、また一面、オランダ人たちの生活を知り、その文物を実際に見るというのも、西洋を理解するうえにたいせつなことです。近いうちにわたしが、たいへんおもしろいものを見せてあげましょう。」
 源内が耕牛の弟子になってオランダのアーベーセーを習い、基礎的な本の講読を受けているある日、耕牛はそんなことをいった。それは宝暦(ほうれき)2年(1752年)があともういくらも残っていない、ある冬の日のことであった。
「しかし、それが何かは、まだないしょにしておくほうがたのしみでしょう。その準備に、松造さんにいって、あなたの紋(もん)つきを新調しておいてください。」
 耕牛はまだ壮年であった。温和な人で、笑いながら、そんなことをいった。
 帰ってから、その話を松造にすると、松造はにやにやして、
「そうですか。なんだか知りませんが、とにかく吉雄先生のおっしやるとおりに準備しましょう。」
 ことばの調子では、松造は事情を知っているらしいのだが、話してくれなかった。さっそく呉服屋を呼んで、黒紋つきやはかまを注文してくれた。
 だいしょうぶだね、これこれの日までに、きっとしあがるように気をつけるんだよ−−と、松造は使いにきた小僧に、しきりに期日の念をおしていた。
 吉雄耕牛から使者のきたのは、松造が小僧に念をおしていた、ちょうどその期日の日であった。
「あすは蘭館で『オランダ冬至(とおじ)』のお祭りがあります。わたしは招かれているので、失礼ですが、わたしの従者ということにして、いっしょに蘭館見物にいきませんか。」
 耕牛のさそいは、そういうことだった。
「それはありがたい!」
 源内は飛びあがって喜んだ。
「そうですか、よかったですねえ。」

−147−




 松造はそしらぬ顔で、なおもにやにや笑っている。
 オランダ冬至というのは、当時長崎港の東北にあたる十善寺という地域に住んでいた唐人屋敷の中国人たちが、冬至の祭りを行なっているのに習って、蘭館でも冬至前後の木曜日に毎年行なっていたお祭りである。
 吉利支丹(キリシタン)禁圧のきびしい時代で、オランダ人たちは、ポルトガル人−−いわゆる南蛮人たちとはちがって、宗教にはなんの目的もないといっているものの、全員がキリスト教徒だし、心の中では日夜キリストを祈っていただろう。オランダ冬至というのは、こうしたオランダ人たちのひそかなクリスマス・パーティーだったのではないかといわれる。
 キリストの降誕については、新約聖書そのほかにも月日は記されていない。日本では一般にクリスマスというと12月25日と考えられているが、国により時代によって、なにも12月25日と一定しているわけではない。ただ『冬至』というものを標準にそれが各国で行なわれた形跡があるのは、この日が一年のかわりめで、なにかと生活設計をするのに便利なためだろう。だから出島の蘭館の『オランダ冬至』が、じつは『かくれクリスマス』であったとしても、理屈(りくつ)はあう。
 −−しかし、そんなことは源内は知らない。いや、吉雄耕牛も、長崎奉行所も、幕府当局さえも、だれも気がついていない。


 さて翌朝−−『オランダ冬至』の当日である。源内は、暗いうちに起こされた。
「ぼつぼつ、出島のあたりはにぎわいますよ。早くお出かげなさい。」
 松造はもう起きて、新調の着物に着かえている。
「あんたもいくんですか。」
「へえ。わたしは出島屋敷出入りの大工(だいく)の、やとい人ということになって、行列の中にはいっていくわけです。これはその、そろいの着物ですよ。」
 そでを広げて、源内に見せる。
「そうですか。じやあわたしも、吉雄先生のところへいってみましょう。」
 源内はしたくして、すぐに出かけた。
 吉雄家に着くと、耕牛はもうしたくして待っていた。なるほど、源内と同じに新調の黒紋つき姿である。

−148−


「きょうのお察りは、わたしたち通詞が主賓として、招かれるのです。あなたはわたしの従者というわけだから、正式の宴会には出席できませんが、館内にははいれます。−−かまうことはありません。どのへやでもかってにはいって見物なさい。」
 そういって、念のために一枚の名札をわたしてくれた。それはオランダ語で、通詞吉雄耕牛の秘書、平賀源内−−という意味の、身分証明書みたいなものであった。
 そろって出島正門の橋のあたりまでいくと、たいへんなにぎわいだった。松造がいっていた出島出入りの職人や商人たちなのだろうか、新調のそろいの着物で、手に手に木で作ったオランダ船の模型(もけい)を持っていた。それが長い列をつくっていた。−−やがてどらが鳴ると、行列はいっせいに橋をわたって出島へとくりこんでいった。
 源内は耕牛にしたがって、その行列のうしろについて出島にはいった。
 商館本館の玄関では、甲必丹(カピタン)をはじめ館員一同が、盛装をこらして待っていた。
 源内にはよくわからないオランダ語で、一同は大声をあげて来訪者を出迎えている。
 やがて、行列が別館にはいると、テーブルの上には簡単な料理とぶどう酒が出ていた。テーブルを取り囲んで立って、祝い客はオランダ人たちのサービスでごちそうを食べ、ぶどう酒を飲んでいる。


−149−



「さあ、ゆっくり館内を見物しましょう。」
 耕牛がさきに立って、蘭館内のへやを見せてくれた。
 私室にはかってにはいれないが、そのほかのへやは自由であった。
 源内には、はじめて見る異国の家であり、へやであった。最初のへやにはいって源内は目を見張った。
 窓は明るいビードロ(ガラス)張りで、床にははなやかなしゆうたんが敷かれていた。テーブルには模様も美しいピロ−ドがかけられており、ギヤマンのつぼに、きく・ばらなどの、日本とヨーロッパの花がいけられてあった。
 横の壁を見て、源内はあっと息をのんだ、額がかかっていて、麦畑で働く農夫の群れを、実物さながらのみごとな色彩で描いてあった。はじめて見る油絵であった。


(なんというみごとな絵だろう!)
 絵心のある源内は、足がすくむほどの衝撃(しょうげき)を受けた。
 べつの壁を見ると、西洋の婦人像がかかっていた。同しように、さながら生きた人のように描かれていた。
 源内はそばまでよって、その油絵を穴のあくほど見つめた。絵の具がうす高く、もりあがって描かれている。
「これは、これは−−なんという絵ですか!」


−150−


源内は、耕牛に、まるでさげぶような声でたずねた。
「わたしたちはオランダ絵といっているのですが……。日本の絵は、絵の具を水で溶(と)いて描くでしょう。それに対してオランダ絵は、絵の具を油やにかわで溶(と)いて描くんだそうです。西洋の絵の中でも、オランダの絵は、とくにすぐれているのだそうです。」
 耕牛は説明する。
「いつか甲必丹(カピタン)に開いたのですが、オランダには、レンブラントとかルーベンスとかいった偉い画家がいましてねえ、なんでも西洋でも最高の画家だそうですよ。ここにある絵などは、それよりはるかに格の低い画家の絵で、それほど有名な画家のではないそうです。」
 源内はいっそうおどろいた。このへやの二枚の絵−−農夫の絵と婦人の絵だけでも源内にとっては、おどろくべき傑作に思えた。それがたいして名もない画家の絵で、もっともっと偉い画家がいるとは! それなら、その人の絵は、どんな絵なのだろうか?
「わたしも描いてみたいですねえ。わたしは日本画はかなり習いましたが、このオランダ絵の美には、とてもおよびません。なんとかオランダ絵を習いたいが、だれが教えてくれる人はありませんか?」
「それならば……。」
 耕牛がうなずいた。
「日木画の絵かきで、ばつぼつ油絵を勉強している人が、長崎にもいますよ。でも、商館にも、だれかオランダ人で絵を描く人もいるでしょうから……待っていてください、そのうちに、だれか見つけてあげますよ。」「ぜひおねがいします。」
源内は、目を輝かせて、耕牛に頭をさげた。
 −−読者諸君は、覚えているだろう。『お神酒(おみき)天神画』の絵をはじめ、源内は絵は幼いころからうまいのだ。松岡春房という人が絵の心得のある人で、源内は四方吉といった幼時から、春房について絵も学んだのだ。
 実際に、源内の絵は一流画家と評価されるほどにうまい。本書の124ぺージに掲げた『軌蔗取漿図(あっしゃしゅしょうず)』というさし絵には『鳩渓山人(きゅうけいさんじん)自画』とあり、鳩渓山人は源内の別号で、みずから自著にいれた自画のさし絵である。それを現代の赤松画伯が模写したものである。
 原画については、特に甘蔗(かんしゃ)をしぼる絵の、うじの生ぎ生きとした表情など、じつにうまい絵だと感心させられるものがある。
 それほどの源内である。当時画聖といわれたレンブラント(1606〜69年)などに代表される黄金時代を誇ったオランダの絵を見て、自分も油絵をかきたいと熱願(ねつがん)したのは、さもあろうとうなずかれることである。やがて油絵の前をはなれて、最後に広間にはいった。

−151−


「ここは娯楽室です。カルタやなんか、いろんな遊戯をするへやです。」
 へやの中央に、大きな四角い、へんてこなテーブルみたいなものがあった。いちめんに緑色の分厚い布が張られていて……。
「あれはなんですか?」
「玉つき台ですよ。」
と、耕牛がゲーム法を説明した。
「へええ、子どもの遊びですか?」
「なかなか。それがたいへんむずかしいので……。」
 耕牛はそばにいた黒人の召し使いに、なにかオランダ語でいった。黒人もオランダ語で答えて、黒い顔に白い歯を出して、台に近づいて棒を取った。
 耕牛も棒を取って、台の上にころがっている白い玉の一つをついた。玉はすぐ前の赤い玉にあたったが、それっきりそれていって、ほかの王にはあたらなかった。
「…………」 黒人は耕牛になにか話しかけ、器用に棒をあつかって白い玉をついた。玉は走っていって別の白い玉にあたり、その反動で角度をかえてテーブルのふちにあたり、はねかえって、こんどはぺつの赤い玉にあたった。
「うまいもんでしょう。なかなか、子どもの遊びどころじやないんですよ。玉は象牙(ぞうげ)でできています。まわりのふちには、なにか反動のつく特別のものをいれてあるんですよ。−−やってみませんか。」
 めずらしいので、源内もついてみたが、玉はうまく走ってはくれなかった。力いっばいついてみると、玉ははげしくふちに衝突してから、台の外へ飛び出してしまった。
「オオッ!」
 なにかさけんで、黒人がいそいでひろいにいった。源内は娯楽室を逃げ出した。
 お昼までいて、源内と耕牛は蘭館を引きあげた。通詞を主賓とする正式の宴会は夜なので、耕牛はもう一度くることになっていた。
「めずらしかったですか?」
「めずらしいにもなんにも……。」
 源内は興奮して答えた。
「いろんな品物が、日本とはくらべものにならぬくらい進んでいますねえ。単に品物だけでなく、絵にしても装飾(そうしょく)にしても、わたしなんか考えたこともなかったものばかりです。」
「どう思いましたか?」
「蘭学をこころざしてよかったと思いましたよ。外国のいいものは、どんどん取りいれて、日本を豊かな、進んだ国にしなければいけない。−−わたしはもとからそう考えていたのですが、きょうは自分の考えが正しかったことを確信しましたよ。わたしはこれから、一所懸命に勉強して、医学も、本草(ほんぞう)学も、絵も、焼き物も、なんでも外国のすぐれたものは全部、日本でもできるようにしたいと思います。」

−152−

「できますか?」
 耕牛は、にこにこ笑ってたずねた。
「できると思います。いや、できるできないでなく、どうしてもそうしなければならないと思います。そのためには……まずしっかりオランダ語を勉強して……。」 源内は、ほおを赤くしてしやべった。
「やってください。わたしは通詞の出身ですから、蘭法の医学もやっていますけど、それよりも第一にことばと文字を十分研究して、あとからくる人のために、道を開いておきたいと思っています。ことばの研究と字引きの完成だけでも、なかなかひとりの人間の一生に、できるかどうかわかりません。
 さいわいあなたは若いし、頭もいいし、からだもしょうぶだ。わたしたちのやったことを基礎にして、いろんな西洋の学問や技術を、日本に取りいれてください!」
 耕牛はそういって、しんけんに源内をはげました。
「こんばんの宴会は−−。」
 と、耕牛はことばをつづけた。
「通詞たちを招く正式のものですから、あなたを連れていくわけにはまいらんでしょう。あとはまた、いつか機会を見て連れていってあげますよ。」
「ほんとうに勉強になりましたよ。ありがとうぞんじました。」
そういって、源内は耕牛とわかれた。

−153−

もどる進む

ホームページに戻る|