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琉球の友

 またまた、年がかわる。
 宝暦3年(1753年)。
 長崎留学は一年といわれていたので、ことしじゅうには帰らねばならない。
 語学・医学・本草学・油絵・陶器。−−目的(もくてき)はいくらでもある。源内は懸命に勉強した。
 正月も半分ほど過ぎたある晩だった。読書につかれた源内は、たまには夜の町の散歩もいいだろうと思って、ぶらりと加賀屋を出た。
 坂の上の丸山(まるやま)の繁華街(はんかがい)では、家々の橙(ひ)が明るく、ほうぼうでお正月の宴会があるのか、大きな歌声などが聞こえていた。
 源内は静かな店で、お酒でもひと口飲んで帰ろうと思って、繁華街の坂の下まできた。
 そのとき、
「やいやいやい!」
 あらっぼい何人かの叫び声といっしょに、源内の目の前の一軒の飲食店から、ひとりの若者がつき出されてきた。見ると、若者を取りまいて、四、五人のあらくれ男が、肩まで腕まくりして、いっしょに出てくる。
「てめえ、因縁(いんねん)つけやがってっ。おれたちの仲間がどろぼうだと!」
「てめえこそ無銭飲食(むせんいんしょく)じゃないか! 金も持たずに飲み食いしやがって、そのいいわけに人をどろぼう呼ばわりするとは、なんという太いやつだ!」
 あらくれ男たちは、口々にののしっている。
「いや、まちがいない。わたしはたしかに財布を持っていた。本といっしょにふろしきにつつんで、すぐ横に置いてあった。それが……気がついてみると、ない。」
 著者は主張している。おおぜいが相手だから声はすこし高いが、さけび立てているわけではない。どこのなまりなのか、ことばには、かなりなまりがあるけれど、挙動(きょどう)は不作法ではない。
「そのとき、その人がすぐ横にいたんだ。わたしが財布のないのに気がつくと、その人はいそいでそちらへ立っ
ていった。だからわたしは、ふろしき包みを知らんかといったのだ!」

−154−


 あらくれ男たちのいちばんうしろにいるひとりを、若者は指さしていった。
「それが人をどろぽうあつかいにするってもんしやないか! 四の五のいわずに、金があるなら飲み代をはらえ!」
 あらくれ男たちは、かさにかかってどなりたてる。
「だから、財布ごと見えなくなったといってるしやないか! ほかに金は持ちあわせがない。」
「ないならないで、亭主にあやまれ! どろぼうあつかいしてすまなかったと、おれたちにもあやまれ!」
 あらくれ男のひとりが、若者の胸もとをついた。ひとりが横からなぐろうとした。
「なにをするのだ!」
 若者は飛びのいた。
「わたしにとっては、金はここ二か月分の学資なのだ。それがなくては勉強もできない、生活もできないのだ。いたずらをしてこまらせないで、おねがいだからかえし
てもらいたい!」
 若者は、背だけは高くなかったが、がっしりした体格だった。顔色は黒いが、まゆのこいととのった顔だちで、きれいな目をしているようだった。
(悪いのはおおぜいのほうだな。青年は金を取られて、こまっているのだな。)
 源内はそう直感した。
「なにをこやつ、やってしまえ!」
 あらくれ男たちが飛びかかった。
 若者はも一度飛びのいて、両手を肩のあたりで開き、足をふみ開いて身がまえた。かにのような、奇妙なかまえだった。


(あっ、空手(からて)だ! きみょうなかまえだが、まったくすきがない!)

 源内は心の中で、おどろきのさけびをあげた。かにがはさみを振りあげたような、きみょうな身がまえなのだが、若者のからだには、すきがなかった。武道のできる源内には、それがひと目でわかった。
 しかし、男たちにはわからないようだった。

−155−



「太いやつだ! たたきのめしてしまえ!」
 二、三人が、同時になぐりかかった。若者はたくみに身をかわすと、
「えいっ!」
 まん中のひとりのなぐりかかってくる腕を、軽く平手で打った。


「あっ、いたい!」
 打たれた男は、おおげさな悲鳴をあげて、その場にしやがみこんだ。
「こやつ、もう許せぬ殺してしまえ!」
 こんどは棒を持ったふたりが、同時になぐりかかろうとした。
「待て侍てっ、こら待たぬかっ!」
 源内は大男である。大手を広げて、のっしと立ちはだかると、なかなか威厳(いげん)がある。
「お武家さん、のいてくれ。その野郎、おいらの仲間をどろぼう呼ばわりしやがって−−。」
 先頭の男が、つっかかるようにいった。

−156−



「そうか、それはいかん。人をどろぼうなどといってはいかん。しかしおまえたちも、おおぜいで乱暴はよくないぞ。」
「なにをっ。」
 先頭の男がさけんだ。
「お武家さん、おまえさんその男と仲間か。仲間なら仲間で、飲み代ぐらいはろうてやったらどうだ! その男は飲み逃げなんだぞ!」
「ちがいます。飲み逃げなんかじやありません。その男たちがわたしの……。」
 若者がいうのを、源内はわかっておる、と手で制した。それから、あらくれたちへ、
「よしわかった。代はわしがはろうてやる。ちょっとのけ!」
 静かにいって、囲んだ輪をぬけて、店にはいる身ぶりをしながら、振り向くなり、
「この財布ではらえばよかろうュ」
 さけぶが早いか、さきほど若者が指さした、いちばんうしろにかくれていた男の腕をつかんだ。「なにをする!」
「なにもしない。財布をかえしてもらうだけだ。」
 懐中(かいちゅう)に手をいれると、ずるずるとふろしき包みをひきずりだした。
「きみのふろしき包みはこれだろう?」
「そうです。それです!」
 若者が飛んできて、源内の手から受け板った。
「どうだ、これでもこの男が無銭飲食か。おまえたちがどろぼうではないというのか。」
 源内がにらみつげた。
「なにをっ、ふざけやがって! ようし、ふたりともやってしまえ!」
 こんどは手に手に樺を持ち、棒を持たぬ男は短刀(たんとう)を握って、五人はじりじりと源内たちに追ってきた。源内は刀の鯉口(こいぐち)を切り、若者は例のかにのはさみを振りあげた。
「こんちくしょう!」
 短刀の男が源内に切りかかったが、源内は抜き打ちに、男の首すじをたたいていた。若者に飛びかかった棒の男は、ひざをけられて倒れていた。ふたりともうんうん、うなっている。あらくれ男たちは、おそれをなして遠巻きになった。
「峯(みね)打ちだ。」
 源内がいった。
「が、早く逃げぬと、つぎはほんとに切るぞ。五人や六人、手間ひまかからぬぞ!」
 とてもかなわぬと見たのか、

−157−


「覚えておれよ!」
 捨てぜりふを残して、倒れているふたりを残したままで、三人は逃げていってしまった。
「ありがとうぞんしました。」
 若者が、ていねいに頭をさげた。
「おかげで助かりました。恩に着ます。」
「いやいや。源内は、笑って答えた。
「あんなごろつきの五人や八人、あんたの腕前ならなんでもないと思いましたが……、しかし、かんじんの全を待っているやつに逃げられてはなんにもならん。そこで、ちょっと手品を便ったまでのことです。」「いや、おそれいりました。お腕前といいお知恵といい、ほんとうに敬服いたしました。」
 心から感心したようで、若者はまたも頭をさげた。


「もういいですよ。そんなにいわれてはからだの置き場がない。−−それよりどうです、あなたは学資といっておられたが、わたしも讃岐(さぬき)藩の留学生です。あなたも留学生とお見受げするが、留学生どうしで一ばい−−。」
 笑いながら、酒を飲む手つきをした。
「喜んでおつきあいさせていただきます。わたしは琉球からの留学生で、渡名喜徳礼(となきとくれい)と申します。医学の勉強にきているのです。」
 若者はうれしそうに名乗った。
「ほほう、琉球から! ずいぶん遠いですなあ。」
「いいえ。船でなら、讃岐からと、そうちがいませんよ。」
 ふたりはうちつれて、近くの料亭の二階にあがった。以前に一度、松造に連れられてきたことのある店なので、主人も源内を見覚えていた。
 女中が酒とさかなを運んできて、ふたりは飲みながら話しあった。
「しつは平賀さん、わたしの先祖は越前(えちぜん)の出身なんです。山崎二休というんですが、日本名は守三というんだそうです。」
「ほほう、そうですか。で、越前の人がどうして琉球に?」
「それが、おかしいんですよ。」
渡名喜徳礼はひとりで笑った。

−158−


「二休は医者だったんですが、いろいろ医学を勉強するうちに、日本より琉球のほうが中国に近い。それでは琉球に行げば、中国から伝わっている進んだ医学が勉強できるだろうと考えたというんです。慶長(けいちょう)のころといいますから、いまから百五十年ほど前のことですねえ。」
「ほほう−−。」
「古い琉球の書物には『二休の人となり純粋にして、学徹精密(がくてつせいみつ)』と書いてありますから、よほどいちずな人だったんでしょう。ほんとうに日本から琉球に渡ったんです。」「なるほど。それで医学は勉強できましたか?」
「それがこっけいなんですよ。そのころには、まだ琉球には医学というほどのものはなく、医者というものもほとんどいなくて、二休は大いに歓迎され、琉球医学の開祖ということになったんですよ。」
「ほほう、それは愉快だ。」
 源内も、思わずふき出した。
「ミイラ取りがミイラに−−というんですか、王宮に召されて、身分の高い医者になったんですよ。それはいいが……。」
 徳礼は、おかしくてたまらぬ表情である。
「そのうちに薩摩が攻めてきましてねえ。」
「ああ、慶長14年(1609年)の薩摩軍の琉球攻めですね。」
源内が、うなずいた。
「そう、そのときです。二休は大和人(やまとびと)のくせに、琉球王の恩義がありがたいといって、琉球側について大いに奮戦したんです。何度も勝ちましたが、最後に敗れて、とらえられたんです。薩摩軍のほうでは、おまえは日本人のくせに何事だといっておこるんですが、二休は、これがほんとうの武士道だといってきかないんです。がんこ者ですから、死罪にするといわれても平気なんです。」
「ほほう−−。」
 聞いているうちに、源内はすっかり山崎二休という男が好きになってしまった。同時に、その子孫であるこの琉球の留学生、渡名喜徳礼という君者も−−。
「そのうちに講和が成立して、それから琉球は日本の一部になったわけですが、当時の王さまが、二休のこの話を聞きましてねえ、たいへん感激して、たくさんの宝物を陸軍に送って、二休の命(いのち)ごいをしたのです。−−まあ、二休はそのおかげで許されて、また医者を続けたわけですが、その二休の子孫が、琉球では代々医者なんです。」
「そうでしたか。それがあなたの家というわけですね。」

−159−



「はい。だが渡名喜の家だけしやなく、二休の子孫はほかに伊集・石原・内聞などという家もあるんです。みな代々医者で、子弟を京都や鹿児島などへ、よく医学修業に留学させるんです。長崎への留学は、わたしがはしめてなんです。」「いや、おもしろいお話でした。」
 源内は笑って、心からそういった。


「ところで、平賀さん。」
徳礼は、ひざを正してすわり直した。
「あなたのおかげで、わたしはほんとうに助かりました。薩摩経由で、二か月か三か月に一度しか学資金は届かないのです。あのままになったら、わたしはうえ死にするところでした。今後もあなたに教わって、いろいろ勉強もごいっしょにしたいのですが、いいでしょうか?」
「いいですとも。おたがいに留学生どうしです。いっしょにやりましょう。」
「お願いします。−−それともう一つ、わたしはぜひ平賀さんにお礼をしたいのですが……なにかわたしにできることはありませんか?」
「いや、そんな心配はいりません。わたしは生活のほうはこまらないし、武士は相見(あいみ)たがいというのに、礼などといわれてはいやです。」
「そうですか。」
 徳礼は、それ以上はいわなかった。
 それからまた、酒をくみかわしながら、おたがいの研究について話しあって、楽しいひとときが過ぎた。 高松の薬園でのいろんな経験を話しているうちに、話はつい砂糖作りの失敗談にまで発展してしまった。
「結局は、原苗がよくないんですなあ。つまり、甘蔗の株自体が、最初から質のよくないものだった……。」
なんの気なしに源内がいうと、ぴかりと徳礼の目が光った。
「平賀さん、それをわたしにまかせてください!」
 徳礼は、さけぶようにいった。
「いい甘蔗の株を、わたしが直接琉球から取りよせますよ!」
「それはありがたいが……いけません。株の移出は禁止のはずです。あなたにめいわくがかかる。」
「かまいませんよ、形式的な法律なんか。どうせ日本全体の産業のためです。大きく考えれば、琉球へも忠義です。」
 徳礼は、源内が縫殿にいったのと同しようなことを
いった。

−160−


「そうですか−−。」
 源内はうつむいて、じっと考えていたが、
「じゃあおねがいします。どちらにしてもわたしは、非合法に薩摩から手に入れるつもりだったんです。わたしだって、ほんとうは、つまらん法律なんかへとも思わん人間なんです。でも本場の琉球からなら、なおいい株がくるわけで、なによりです。けんど、あんたにはめいわくをかけとうなかったが……もうなにもいわずに、おこころざしを受けます。」
「ありがとう。」
 徳礼はうれしそうだった。
「平賀さんが吉雄先生に学んでいるのなら、わたしも本木先生に蘭学を学んでいるのです。甘蔗のことはべつの話として、これから一所懸命にやりましょうね。」
「ああ、やりましょう。」
 ふたりの留学生は、かたい握手をかわした。ちょうど年齢も二十六で、同しだった。
 それからのち、徳礼は源内をたずねて加賀屋へくるようになり、源内も徳礼が下宿している町医者の家へいった。徳礼は琉球では一人前の医者だったので、代診ぐらいはできる。半ば下宿人、半ばアルバイトの代診というところだった。
「平賀さん、剣術を教えてくれませんか。」
「いや、わたしもあなたに唐手を習いたい。」
 そんなことで、ふたりは庭に出ては、剣術と唐手の教えあいもした。甘蔗のことは、源内も徳礼も、その後一度も口にしなかった。


 こんなにして源内は、徳礼と励ましあって勉強を続けたが、そのうちに源内は、しばらく油絵を描くことに熱中した。
 現在、源内がだれに最初の油絵の手ほどきを受げたのか、どんなにして油絵の其の使い方を教えられたのか、それらを明確にする記録は残っていない。しかし、かれの油絵は何枚も残っているし、油絵の其に対する彼の理解なども、明確な文章になって残っている。
 たぶん、源内は、吉雄耕牛か松造かに紹介されて、オランダ人のだれかに油絵の初歩の講義を受けたのにちがいない。絵の具や油などは、加賀屋の関係で、どこからでも買えただろう。

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 日本の油絵は、一般には司馬江漢(1738または47〜1818年)が開祖だとされているが、じつは江漢は後年の平賀源内の弟子である。ほんとうの油絵の始祖は源内である。
 源内の油絵の作品は、きわめて近代的であり、西欧的である。
 たとえば源内の弟子である司馬江漢の油絵などは、構図においても、日本画のなごりを、いたるところに残している。かれはもと狩野派の絵を学び、ついで浮世絵を描き、それからはじめて源内に油絵を学んだのだから、日本画がしみこんで、のぞきようがなかったにしても、むりとはいえない。
 江漢の描く海や山やまつの木などは、そのまま広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)五十三次(つぎ)みたいである。すなわち江漢の絵は、西洋の油絵の具をもってする日本的風景画・人物画であるといっても、いいすぎではないだろう。
 これに対して源内の油絵は、その精神において西欧の美術を理解しているといえる。
 現存する源内の油絵の中で、もっともすぐれた作品と思われる『西洋婦人図』などは、まったく現代の作品かと思われるくらいに画風が新鮮である。

 源内と同じ讃岐(さぬき)の出身である猪熊弦一郎(いのくまげんにtろう)画伯(がはく)のある作品などと、その画風はそっくりといえる。それまでの日本画からは考えられさえもしない、まったく革命的な『洋画』の感覚である。その絵は、赤松画伯の模写(上の絵)で見られるとおりである。
 そのうえに源内は、油絵の具を単に絵の具として、できあがった材料として使っただけでなく、絵の具の成分や性質にいたるまで、かなり深い理化学的研究をしている。たとえばその著『物類品隲』の巻の二、石の部などには、西洋絵の具の成分などに関する解説まで、いくつかのっている。

 −162−


 そして、司馬江漢は岩(いわ)絵の具を膠(にかわ)で溶いたが、源内は洋画の正統な技術にしたがって、亜麻仁油(あまにゆ)で溶いている。


 さて、そんなにして源内が勉強を続けているうちに、春が過ぎ、やがて夏になった。旧暦六月のある日、突然長崎の空に、花火のような大きな音がひびき渡った。
「あの音はなんですか?」
 源内が聞くと、松造は、オランダ船が入港してきた知らせです。オランダの船は、毎年六月に新しい甲必丹(カピタン)と貿易品をのせて、やってくるんです。いまのはその知らせの石火矢(いしびや)ですよ。」
と教えてくれた。そして松造は、
「これからいそがしくなります。品物が出島に陸あげされて、いよいよわたしたちの商売がはじまるんですよ。出島へは、つごうがつけば連れていってあげますよ。」
 せかせかと、松造は出ていってしまった。源内は、渡名喜徳礼をさそって丘の上から船を見ることにした。
 船は、三本マストの大きな船だった。出島に立っているのと同し、オランダの国旗をかかげている。
「あの船は、ジャワ(インドネシア)から来たものですよ。船が入港すると、奉行所から検視(けんし)の役人が通詞を連れて乗りこみ、かねてジャワのオランダ政府から届いている秘密の旗で旗合わせをして、正規のものかどうか確かめます。調べがすんでから積み荷の陸あげが許されるのですが、その積み荷というのは、砂糖や糸や織物・薬品はもとより、ギヤマン・ビードロなど、いろんなめずらしいものがあるんですよ。」
 長崎では1年先輩の徳礼が話した。
「ああ、わたしも船に乗って外国へ行ってみたい!」
 源内が、大声でいった。
「わたしは、日本にだけとじこめられているのがいやになった。広い世界を見てみたいのです。いわんや讃岐(さぬき)だとか伊予(いよ)だとか、肥前(ひぜん)だとか肥後(ひご)だとか、せまい一国(現在でなら一県、またはそれより小さい。)にとしこめられているのは、なおさらたまらない。学問にしても、たとえは本草学についても、讃岐なら讃岐一国にある本章の種類など、知れたものです。世界がだめなら、せめて日本じゅうを対象にして研究を進めてみたい!」
「それならば……。」

−163−



 徳礼が、目を光らせていった。
「やはり江戸(えど)に出ることですねえ。江戸に出れば、幕府(ばくふ)のおひざもとだから、やはり日本しゆうに目が届くのではないですか。」「そう、そのとおりです。幕府を相手にして学問を進めれば、せめては全日本を相手にした研究ができるかもしれません。−−それに、渡名喜さん。」
 源内は、悲しそうな目で徳礼を見た。
「あなたは琉球へ帰れば数少ない医者だし、先祖代々の名門なのでしょう。しかしわたしは、讃岐へ帰れば、いっかいの足軽であり、薬園のお薬坊主にすぎないのです。生まれたときに、もう一生の身分がきめられているような今の世の中では、いくら学問ができても、足軽は結局足軽です。その発言権はきわめて低いのです。自分の理想どおりの学問など、結局はできないのですよ!」
「残念ながら……現実は、ですねえ。」
 徳礼がうなずいていった。
「あんたのいうように、わたしはやはり、江戸に出なげればならないのでしょうねえ。」
 源内はそういって、じっと考えこんでしまった。
 長崎という、世界へ開く町に来て、源内の視野は広くなったのだった。狭い讃岐で、たとえ源内がどんなにすぐれた学者になっても、単に禄高(ろくだか)が多いというだけの理由で、学問はなにもわからない横道首太夫老人にさえ、源内は一生頭はあがらないのだ。
 広い海を見、その海を渡って遠いヨーロツバから渡ってくるオランダ人のことを考えると、狭いおりの中で、身分という重いくさりにつながれた自分たちが、源内にはあまりにも微小で、あまりにもあわれなものに思えてきているのだ。
(わたしはなんとかして江戸に出よう。玄丈のように、一生を一つの目的にささげるのもりっばな生き方だが、わたしには、もっと大きな使命がある。わたしにはどんなにしても、日本の学問を、世界に劣らぬものに育てあげねばならない使命があるのだ−−。)
 丘の上から三本マストのオランダ船を見おろしながら、源内は考えにふけった。

−164−

ー165−



 やがて暑い夏が過ぎて、また秋が訪れ、その秋もいこうとしていた。一年の留学期間が週ぎて、源内が讃岐へ帰る日が近づいた。
「早いものですねえ、もう一年たちましたか−―。」
 松造がいった。
「で……勉強のほうは、十分はかどりましたか?」
「はあ、おかげで。オランダ語もすこしは勉強しましたし、本草学もずいぶん広くなりました。そのうえ、オランダの理化学から油絵までやったのですから、思い残すことはありません。」
「ご依頼のものも、朝鮮人参のほうはだいぶ前に国へ送ったわけですが、甘蔗はまだうまくいっておりません。しかしかならず手にはいりますから、あとから船で送りますよ。安心して待っていてください。」
「ありがとう。でもこれだけ勉強できたのですから、国へのみやげは十分ですよ。そう気になさらずに、いつか手にはいったら送る、という程度にしてください。」
「まあまあ、わたしはわたしとしてやりますから……。じゃあつぎの加賀屋のやとい船は、5、6日あとに出ますから、それに乗られますか?」
「そうしましょう。加賀屋さんにはなにからなにまでおせわになりましたが、おせわになりついでに、帰りの船もお願いすることにしますよ。」
「どうぞご遠慮なく。高松にはどうせ寄港するんですから。−−おせわになったのはわたしのほうで、このまえのオランダ船のはいったときなど、あなたのおかげで大損害をまぬがれました。」
 松造のほうが丁重に礼をいった。オランダ船のはいったときというのは六月のことで、そのとき、松造が高い値段で買い取ろうとした薬種を、源内が鑑定の結果、効果のないまぜ物の草が多量にはいっているのを発見した。
 加賀屋からの申し出で、会所からオランダ側へ厳重に交渉し、オランダ側も驚いて、ひじょうに安く買うことができたのだった。
 そんなことは以前からときどきあったが、すぐれた本草学者などは商人の中にはいないので、つい不良品やにせものを買いこんで大きな損害を受けながら、泣き寝入りになったものだった。源内の手柄で、その後はオランダ船も、粗悪晶は持ってこなくなったという。
「渡名喜くん、たいへん仲よくしてもらって、なごり惜しいが、こんどの船で讃岐に帰ります。」
「そうですか。それは残念だが、しかたありませんね。わたしもそのうちに、家の許可があったら京へ勉強にいきたいと思います。そのときは讃岐によりますよ。」

−166−



「ぜひよってください。歓迎します。」
「ゆきさんとかいう人が、そのときにはあなたの奥さんでしょうなあ。そのときにはおせわになりますから、いまからよろしくいっておいてください。」
「さあ、それはどうなるか……よろしくとはいっておきますよ。」
 ふたりは声をそろえて笑った。
「江戸へは?」
「ぜひいきたいと思っています。いや、きっといきます。あなたも京都よりも、江戸へいきませんか?」
「さあ、考えてみましょう。ところで、あなたにお渡しするみやげ物があるのですが、出帆はいつですか?」
「あさってか、そのつぎの日かです。でも、みやげなんて−−あなたの友情が、だいいちのみやげですよ。」
 源内はいったが、徳礼は「まにあうかな?」と、ひとりで首をひねっていた。


 いよいよ船の出る日の朝、源内は讃岐へ持って帰るほどでもない本を、徳礼にあげようと思って下宿をたずねたが、徳礼はるすだった。
「さあ。なんだか二、三日旅行してくるとかいって、あなたがこの前にこられたつぎの朝早く、渡名喜さんは出ていかれました。それからまだ帰らないんですよ。」
 下宿先の町医者の主婦は、気の毒そうにいった。
「そうですか。それは残念だが……わたしは今晩出帆する船で国へ帰りますから、よろしく伝えてください。この本は、渡名喜くんへのわたしの贈り物ですから……。」
 源内は、本をあずけて帰った。
 その夜は月があって、潮のぐあいでか風のぐあいでか、夜の船出がつごうがよいとのことだった。日が暮れると源内は身じたくして、加賀屋を出た。荷物は昼のうちに、松造のさしずで人夫がすでに船まで運んである。からだ一つの気楽な出発である。
「じやあ松造さん、またまいりますから。あなたも大阪への帰り道には、ぜひ高松によってくださいよ。」
「そうですか、なごり情しいですが……。わたしは商用で、ちょっと回り道をしますが、船が出るまでには送りにまいりますから……。」


−167−




「いや、心配いりません。お元気で。」
 源内はひとりで気楽に浜のほうへ歩いた。時間はまだたっぷりあるし、それに源内が乗るまでは、加賀屋のやとい船だから出る心配はない。源内が町のつじを二つほど曲がったときだった。うしろからパタパタと、かけてくる足音が聞こえた。
「待ってくださあい、平賀さあん!」
 叫んでいる声は、浜名喜徳礼だった。
「ああ、渡名喜くん、旅行だったそうだが、帰ったんですか。」
 源内はたたずんで、徳礼を待っていった。
「ああ、まにあってよかった。いま加賀屋さんによって、急いであとを追ってきたのですよ。」
 徳礼は、ふうふう息をはずませている。
「本をいただきまして、ありがとう。−−じつはわたしのほうも、あなたに国へのおみやげがあるんです。それを受け取りに天草へいってきたのです。」
「天草まで! それは申しわけない。で、みやげってなんです?」
「甘蔗ですよ。」
「えっ、甘蔗っ!」
 思わず源内は、大声をあげた。徳礼は、しっ、と制して、あたりを見回した。


「あなたとの、かねての約東です。ずっと前から琉球へいってあったのが、鹿児島経由でやっと天草の知人の家まで届いたのですよ。」
「それはありがとう。でも、だいしょうぶですか? 鹿児島は、甘蔗の持ち出しは、ひどくうるさいんでしょう?」
「そうです。それで……、あまりだいしょうぶでもないんです。鹿児島の積み替えまでは、だいしょうぶだったそうですが、積み替えた船が鹿児島を出てから、なにか臭いぞというので、追っ手がかかっているらしいんです。」


−168−



「それはたいへんだ。あなたがたにめいわくをかけてはいけない。」
「いや、それはいいんです。なにしろ琉球からの船は、ばれていないし、鹿児島からは、天草の船です。天草も長崎も天領(てんりょう:幕府直轄地(ちょかつち))ですから、甘蔗自体は追われても、いくら薩摩の武士でも、天領で人を斬ったりはしないでしょう。自分の領内とはちがいますから……。」
「そうですか。でも気をつげてくださいよ。」
「証拠の甘蔗さえ船で出てしまえば、あとはだいしょうぶですよ。浜の木かげにかくしてありますから、さあ、取りにいきましょう。」
 徳礼は小声でせきたてる。ふたりは道を急いだ。
 浜のまつの木の根もとの砂に埋めてあった甘蔗の包みを取り出して、ふたりが船へ急いでいるときだった。ばらばらとご一人の若い武士が、ふたりを追ってかけてきた。
「おい、そのふたり待てっ!」
 源内はぎょっとしたが、覚悟をきめて立ちどまった。武士たちはふたりを取り巻いたが、
「あっ、その男だ。その小柄な男のほうだ! おまえは天草からその荷物を持っできただろう。中になにがはいっているのか、あけて見せろ!」
 武士のうちのひとりが叫んだ。
「なんでもないですよ。本草学の見本にする、天草のまつの株ですよ。」
 源内が、徳礼に代わって答えた。
「ほんとうに松の株かどうか、ともかくあげて見せろ!」
「いや、おことわりします。わたしは讃岐高松、松平藩士、平賀源内国倫(くにとも)といいます。藩公の命令で、松脂(まつやに)採取のためのまつの株の見本を集めているのです。まつの株を集めてはいけませんか?」
 源内が身分姓名を名乗ったので、武士たちは一瞬たじろいだ。しかも高松、松平藩といえば、親藩の中でも御三家水戸の直流ともいえる名門中の名門である。うっかり政治問題となれば、薩摩藩といえども難儀(なんぎ)である。
 しかし武士たちは、やがて気勢を販りもどした。
「これは失礼を致したのかもしれぬが・…・われわれは薩摩藩士、しさいあって姓名は名乗れませぬ。じつは薩摩より天草へ、国禁の甘蔗を持ち出した者がある由にて、われら命令を受けて追ってまいったが、一両日来(らい)天草で見かけたその男があやしい。よってあとを追ってまいり申した。まことまつの株なれば、お見せ願いたい。」

−169−



「なりませぬ!」
 と、源内は強くことわった。
「これは君公ご命令のもの、君公のお許しがなければ見せられぬ。しかもただいま、帰国の船が出るところゆえ、一刻の余裕もないのです。」
「ならば、刀にかけても!」
「それは難題というものだ!」
「ええい、めんどうだ。切れ! 切って奪い返せ!」
 刀は抜かないままで、三人はじりじりとよってくる。


 左手に甘蔗の包みを持ったまま、源内はじりじりと後退する。と、「ええいっ!」
 抜き打ちに、まん中の武士が切りつけてきた。薩摩自源流(じげんりゅう)というのか、真(ま)っ向(こう)から唐竹割(からたけわ)りの太刀風である。
 源内は身を沈めてあやうくよげると、左手の甘蔗の包みをその武士の顔に投げつけた。
「あっ!」
 思わぬ奇襲(きしゅう)にひるんだところを、これも抜き打ちの裏打ちで、したたかに首すしを打った。
「ううむ。」
 武士はうなって倒れた。

ー170−



「覚悟っ!」
それを見て、残るふたりが、同時に源内に切りづけようとした。そのとき、
「たああっ!」
 鋭い気合いがひびくと、渡名喜徳礼が、右の手刀で右にいた武士の小手を打ち、左の足で左にいた武士の腹部を、一瞬の間にけりあげた。
「ううむ!」
 ひとりは刀を落とし、ひとりはその場に崩れ落ちた。
「さあ平賀さん、このまに早く!」
「では頼みます!」
 源内は甘蔗の包みをひろうと、全速力で船へ走った。
 しばらく走ってから振りかえってみると、倒れていたふたりの武士は、やっと起きあがったけれど、戦闘能力はないようだった。
 刀を落としていた武士は、徳礼の手刀で、右の手首が析れたのだろう。左手だけで刀を持って徳礼に切りつけているが、動作はひどくのろくなっていて、とても機敏な徳礼の敵ではない。
 徳礼は、逃げればいつでも逃げられるのに、あえて逃げもせずに適当に相手をつとめているのは、早く源内を船に着かせたい一心からだろう。
(ありがとう、渡名喜君(となきくん)。君(きみ)の友情は一生わすれない!)
 源内はうれしくてなみだが出た。振りかえって立ちどまり、礼をした。
 その姿が見えたのか、徳礼は手を振って、早くいけ、早く去れと、源内をうながしている。
 源内はも一度全速力で走った。
 船着き場まできてみると、一隻の伝馬(てんま)が待っていて、
松造が乗っていた。
「どうしたのですか、平賀さん。おそかったですねえ。」
 松造は、心配そうにいった。
「いや、どうもしませんが……。しかしもういいですから、どうぞ帰ってください。いろいろありがとう。」
 源内は、本船まで送るという松造をむりにおろして、伝馬を出させた。松造が船着き場に立って、手を振っている姿はしばらく見えたが、伝馬が沖に出たのと、月が雲間にかくれたのとで、やがて見えなくなった。
 本船が港を出ていくとき、源内は早坂に立って、いつまでもいつまでも、長崎の町を振りかえっていた。

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