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あとがき

 この書物は、以前に毎日中学生新聞に連載した『平賀源内』という伝記小説に、やや加筆したものです。
 源内の生(お)い立ちや、その学問への志、学問進歩の段階などについては、できるだけ忠実に史実に従いました。源内をめぐる人々についても、単に文献(ぶんけん)の上で記録されているものばかりでなく、郷里である香川県志度町(しどちょう)や高松市に残っている伝承(言いったえ)なども多く採り入れて、できるだけ当時を再現(さいげん)することに努めました。
 しかし、人間の歴史というものは、小さな一日一日の積み重なりですから、今日から源内のすべての生活を知るということは不可能です。それで、未知の部分については、既知(きち)の資料を並べ、整理し、それらの関係をよく考え合わせてみて、当然こうだったであろうという論理的な帰納(きのう)や、また人間というものに対する考察(こうさつ)などによるのほかありません。したがって本書は、細部に関しては、事件についても人物についても筆者の仮構(フィクション)がありますが、それらはすべて、史実という根拠(こんきょ)に立った仮構であるといえます。伝記そのものではありませんが、歴史に忠実な伝記小説と考えてください。
 本書は源内の少青年時代のみを描きましたが、こうして成人した源内は、江戸に出て田村藍水(らんすい)という有名な本草学者に学びます。そして師とともに、日本では最初の薬用の動・植・鉱物の展覧会である『物産会』というのを三回開き、そのために全国から集めた物産の研究をもとにして、『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』という有名な博物学の書物を著(あら)わします。
 この物産会の開催を端緒(たんちょ)に、本草学者・理学者、ならびに工業家・発明家としての、源内の幅広い活動が始まります。時代は前後しますが、世人をおどろかせた火に燃えない布−−火浣布(かせんぷ)の製造とか、関東の山奥での鉱山の開発とか、長崎に再遊して会得(えとく)したオランダ式の製陶法(せいとうほう)の讃岐(さぬき:香川県)への移植とか、また、綿羊を飼育しての毛織物製造や、砂糖の精白法を同じ讃岐に伝えたこととか、当時としては、常人には思いも及ばなかった多くの事業を、源内は行ないます。
 特に有名なのは、エレキテルの話でしょう。源内は長崎でオランダ通詞(つうじ)から摩擦起電器(まさつきでんき)の廃品を手に入れ、これを修理復元(しゅうりふくげん)して、日本で最初の静電気(せいでんき)の発電に成功し、ひどく世人をおどろかせたのです。
 さきに時代は前後するが、と断わりましたが、このような活動の期間を通じて、源内は青年のころから考えていた「一番だけを単位に考えたのでは何もできない。」という思想を、いっそう深めます。すなわち、隠居(いんきょ)したとはいってもなお高松藩に籍があり、給料を受けている身分では、その半面で制約も多くて、日本全体を対象とした研究や開発はきわめて困難であるということをしだいに痛感します。
 その時代は、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)によって代表される、いわゆる『田沼時代』でした。徳川幕府(とくがわばくふ)による平和がつづき、産業や文化が発達してきますと、土地(米)だけを基礎(きそ)とした封建体制(ほうけんたいせい)は、経済的に困窮し、成り立たなくなろうとします。そこで意次は農業以外にも商工業など、諸産業の振興(しんこう)をはかり、現在の資本主義社会のような方向をめざす政治を展開します。また、さこく(さこく)政策をやめて開国したいと考えます。また、意次が老中になったのが1772年ですから、いまからちょうど二百年前のことです。
 古い歴史では、意次は悪い政治家の見本みたいに非難されましたが、(たしかにそんな一面もあるけれども)近年の研究では、意次は近代日本の先駆者のひとりとして見直されています。
 源内は、この田沼意次と手をにぎって、幕府の力にたよって自然科学の進歩と全日本の産産業振興という自分の理想を達成しようと試みます。田沼は源内を理解しており、源内としては高松藩籍(たかまつはんせき)を完全離脱(りだつ)して、幕府の直属となる、−−今日のことばでいえば、政府顧問とか政府嘱託(しょくたく)といった地位につこうと試みるのです。
 そのために源内は、宝暦(ほうれき)11年(1761年)、高松藩にもう一度浪人願(ろうにんねが)いをします。自分はもっともっと学問に専念したいので、落籍を完全離脱させてほしいという主旨(しゅし)です。そして源内は、ここで痛烈(つうれつ)なしっぺ返しを受けます。『他家志願(たけしがん)お構(かま)いのこと』という高松藩の処置です。
 すなわち高松藩は、おまえの願いはもっともだといって、源内の浪人願いを許可します。けれどもそれには条件がついていて、「学問専念のために高松藩をやめるのなら、他のいかなる主君に仕え暇(ひま)もあるまい。だからそれは許さない。」というのです。なるほど、高松藩の言い分は形式論理(けいしきろんり)としては正論です。
 しかし、それがひとりの天才を殺してしまうことになったのも、また事実です。高松藩としては、源内はたかが身分は足軽なのに、その才能を愛して、少年時代以来、例のないほどの援助を彼に与えてきた。それが、ここへきて、幕府直属になりたいために藩を足蹴(あしげ)にするのでは、あまりに身勝手ではないか。それでは藩の面目はまるつぶれではないか、とおこったわけでしょう。あるいは源内のほうに、その天才的な才能は才能として、人間的に、この時点では、人に憎(にく)まれるような欠点があったのかもしれません。いずれにしても、少年時代から源内がばくぜんと恐れていたように、自分の野心と、あまりにも幸運すぎることへの運命の報復が、ここでいちどに爆発したのです。
 こうして源内の、田沼と結び、幕府直属となって全日本の産業を振興しようという理想は挫折(ざせつ)します。それは日本として、たいへんな損失であったかもしれません。そして源内はひどく悲しみ、またおこります。彼の怒りは、単にそのような処置をした高松藩の役人たちといった小さなものに対してではなく、そのような絶対専制的な処置をなし得る根拠となっている封建体制そのもの、権力そのものに対してするどく向けられます。この時代に、封建体制そのものに対して不信の目を向け、これを明白に罵倒(ばとう)した人は、平賀源内ただひとりといえましょう。
 源内の怒りは、文学の形で示されます。虚妄(きょもう)の権威を冷笑し、痛罵(つうば)して、彼は続々と風刺小説や、ユーモラスで痛烈な社会時評的な随筆などを発表します。権威などは屁(へ)のようなものだと暗喩(あんゆ)する『放屁論』をはじめ、『根無草(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』といった快作が世に問われます。純文芸的なものとしては、浄瑠璃(じょうるり)『神霊矢田矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』は、今日でも傑作として、歌舞伎十八番の一つとして上演がつづけられています。
 源内はそれから生涯(しょうがい)を純然たる浪人としてすごしますが、その家には、いつも食客が十人も二十人もいて、源内はいろんな発明や新商品の売り出しや、また著述の収入などでこれらの人たちを養なっていたといわれるから、彼がどんなに大きな能力の所有者であったかがわかるでしょう。
 その活動は、上述のとおり理学・工学・医学・薬学などの分野から文学・油絵にまで及び、以上を応用しての具体的な産業の振興も数多くあって、『日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ』とも呼ばれています。また源内は一口に、『百年早く生まれすぎた天才』といわれますが、田沼の老中就任がちょうど二百年前ですから、なるほど、もう百年おそく生まれて、その青年時代が明治維新ごろだったとしたら、どんな世界的な活躍をしただろうかと借しまれます。
 源内の最後は、気の毒でした。あやまって人を斬り、留置場で病死したのですが、諸説があってその間の正確ないきさつはわかっていません。
 本書は、以上のような悲運の天才が、どのようにして育ってきたか、その成長後の命運が、どのように少青年期に胚胎(はいたい)していたか、−−それらを考えてみたいために書いた伝記小説です。
 最後に−−本書は平賀源内全集をはじめ、多くの研究家の貴重な書物を参照させていただきましたが、特に地元香川県の文化財専門委員松浦正一、平賀源内顕彰会理事長出雲秀一、県教青委員会松岡茂春、岩清尾八幡宮宮司吉本降平(肩書はいずれも連載当時)の諸氏には文献の提供、伝承の紹介など、多くのご助力をいただきました。また漢法医学や本草学史に精通されている石原明医学博士には、その方面でのご協力をいただきました。また赤松克巳画伯は高松のご出身で、連載のさし絵でも本書でも、たいへんなご努力をわずらわせました。さらに本書の刊行にあたっては、井岡芳次・松井勲・小島福司の諸氏のたいへんなご協力を得ました。深く感謝の意を表明いたします。

    昭和47年10月

木本 正次


☆著者のあゆみ
 大正元年、徳島県海部郡牟岐町生まれ。神宮皇學館史学科を卒業。日本文芸家協会会員。
 昭和10年、毎日新聞社に入社。支局長、編集局の各部長を歴任。その間、毎日新聞に記録小説『黒部の太陽』を連載したのが動機で、文学活動に専念するようになる。同紙にはほかに『香港の水』、『四阪島』などを連載。 
 また週刊現代に『砂の十字架』、月刊現代に『あの煙突を閉めろ』などの記録小説を連載した。他に著書多数がある。(平成7年1月26日逝去)

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