第一部 志度の小てんぐちびっ子と殿(との)さま
享保(きょうほう)18年の旧暦(きゅうれき)3月はじめのことというから、西暦では1733年、いまから260年ほど昔のことになる。江戸(えど)時代の、ちょうどまん中ほどのころである。
四国(しこく)讃岐(さぬき)の国(くに)寒川郡(さむかわぐん)志度浦(しどうら)−−現在の香川県(かがわけん)大川郡(おおかわぐん)志度町(しどちょう)の街道(かいどう)を、10人あまりの身なりのいい武士(ぶし)や足軽(あしがる)に守られて、一ちょうのきれいな駕篭(かご)が通っていた。
志度浦は、高松城下(たかまつじょうか)から東へ、直線距離にして10キロあまり、瀬戸内海(せとないかい)の東のはずれに仕置する。北が海で、15キロほどで小豆島(しょうどしま)とむかいあい、東丙に岬(みさき)があって、浦はまんまるく湾入(わんにゅう)した内海(ないかい)になり、一種独得(いっしゅどくとく)の、桃色をした砂浜が、弧(こ)をえがいてつづいている。街道ぞいは、すくすく枝を張(は)った松林である。
旧暦3月はじめといえば、現在の暦(こよみ)では4月もなかばで、南国(なんごく)の春はすでにたけなわだった。さくらは散ってしまって、道(みち)ばたには、れんげそうやたんぽぼや、そのほかの野草が、赤や、黄や、白や、紫の花々を、あざやかな色どりで咲かせていた。そんな野道を、白衣(びゃくえ)にすげがさをかぶり、長いつえをついた、四国八十八か所めぐりのお遍路(へんろ)さん(巡礼:じゅんれい)たちが、3人、5人と一団になり、鈴を鳴らしながら歩いているのも、春の四国路らしい風物詩であった。
「ああ、お殿さまや。」
「また、おしのびのご巡視(じゅんし)やろ。」
駕篭(かご)が進んでいくと、土地の人々が、お遍路(へんろ)さんたちにも手をふって合い図(あいず)して、あわててみなが道ばたに土下座(どげざ)する。見ると駕篭(かご)には、三つ葉あおいの紋章(もんしょう)があった。徳川将軍(とくがわしょうぐん)の一族である高松藩主、松平侯(まつだいらこう)のお通りにちがいなかった。
「これよ。」
志度の道並み(みちなみ)の中ほどまで来たときに、駕篭(かご)の中から、静かにすんだ品のいい老人の声がした。
「はっ。」
駕篭(かご)わきにいた身分の高そうな中年の武士が、引き戸(ひきど)の前にうずくまって答(こた)えた。
「もはや志度浦も、なかばであろう。」−1− 「御意(ぎょい)。」
「米蔵(こめぐら)の前に駕篭(かご)を止めよ。長(なが)いあいだの一同の労苦(ろうく)、ねぎろうてやりたい。」
「かしこまりました。」
その武士の合い図で、駕篭(かご)は四つつじをまがった。すると、まもなく幅4、5メートルほどの堀(ほり)が行く手に見えて、堀のむこうには、白壁を春の日にきらめかして、いくむねかの倉庫(そうこ)がならんでいた。
堀の手前まで進んで駕篭(かご)が止まろうとしたときだった。突然、その堀のみじかい橋を渡って、釣(つ)りざおをかついだ、ひなびたみじかい着物をきた童児がちょこちょこ走り出て、駕篭(かご)わきをぬけようとした。大柄(おおがら)なからだなので7、8歳にも見えたが、顔つきのあどけなさは、まだ4、5歳の幼児のようであった。
「小僧、とまれっ。お殿さまのお駕篭(かご)やぞ!」
足軽が、手を広げてあわてて制止(せいし)した。
「お殿さまいうたら讃岐守(さぬきのかみ)さまやろ。ご苦労さんやのう。おらがうちに来て、お茶でも飲まんか。」
童児は驚いた気配(けはい)もなく、足をふんばり、目玉をくるくるさせて笑っていった。
「こら、ご無礼やぞ。おまえはどこのこせがれや?」
「このお米蔵のお蔵番(おくらばん)、白石茂左衛門国久(しらいし もざえもん くにひさ)の一子(いっし)、四方吉(よもきち)や。昔をいうたら、おらも大名の子や。−−お供の衆もつかれたやろ。まあよってお茶でも飲めえや。」−2−
「だまれ小僧っ!いかに幼童でも、ぬけぬけ雑言(ぞうごん)はゆるさんぞ!」
おどかしか本気でおこったのか、足軽のひとりが、腰(こし)の木刀(ぼくとう)を抜いて振りあげた。
そのとき、お米蔵の大門から、3、4人の男たちが小走りに出てきたが、小僧と足軽と、そして駕篭(かご)定紋(じょうもん)のを見ると、電気にふれたように、
「あっ!」
身をふるわせて、地面にはいつくばった。
「なにとぞ、おゆるしくだされませ。なにぶんにも、がんぜない子どものこと!」
先頭の男が、地面に頭をこすりつけて、泣くような声でいった。
「なにとぞ、ご無礼の段(だん)はひらに!」
その男は、質素(しっそ)だがさっばりした綿服(めんふく)に、たっつけばかまで、脇差(わきざし)を帯(お)びていた。ほかの連中(れんちゅう)が丸腰(まるごし)なのにくらべて、かしら分のようであった。
足軽(あしがる)が、自分(じぶん)の肩(かた)ごしにうしろの武士(ぶし)たちを見て、振りあげた木刀をおろすと、男はからだをかがめて「ごめんくだされ。」と小声でいって、幼童のそばに走りより、横だきにして、橋をもどろうとした。
「なんするんぞ、おとうはん!」
幼童はばたばたして、橋の中ほどで男の腕からはねおりた。
「お殿はんが、お年よりでご病身やのに、こうして下々(しもじも)のことを心配して、いつもおしのびで回ってござると聞いて、おらは前から、えらい人やと思うとったんや。ほんだけん、きょうはじめてお目にかかれたんで、うちによってお茶でも飲んでもろて、休んでもらおう思うたんや!それやのに、お供(とも)の衆が、おらをたたこうとして!」
泣きだしそうな声で、幼童はさけんだ。
「こら四方吉(よもきち)!だまらんか、ひかえんか!」
男が、四方吉とよばれた幼童の頭をこづいた。
そのとき、駕篭(かご)わきにいた品のいい武士が、2、3歩橋のほうへ歩み出た。
「茂左右衛門じやな。わしは大久保(おおくぼ)じや。−−そのほうのせがれか?」
「これはご家老(かろう)さま!」
男は、四方吉(よもきち)の父の白石(しらいし)茂左衛門だった。あわてて四方吉の頭をおさえつけながら、も一度ひくく平伏(へいふく)した。−3−
「かぞえて6歳にあいなりますが、なんとも手におえぬわんばく者でございまして……。」
数え年の6歳は、現在の満年齢では4歳、または5歳である。
暑い季節でもないのに、茂左衛門は、ひたいからびっしょり汗を流している。
「よいよい。」
武士は前の年に就任(しゅうにん)したばかりの、筆頭家老(ひっとうがろう)の大久保飛騨公敦(おおくぼ ひだ きみあつ)であった。えがおで四方吉に近づいて、
「四方吉とやら、そちはそのようにお殿さまを好きか?」
「好きやった、いんまのさきまでは!」
顔をまっかにして、四方吉は、こんどは家老をにらみあげた。
「殿はんは、ご慈悲深(じひぶか)いお方やいうて、おらは聞いとった。大水やひでりつづきで、日本じゆうがこまっとったのに、讃岐(さぬき)ではお殿はんのお情けげ、かつえ死(し)にするもんがなかったということや。
−−−おらは今まで、大好きやった!けんど、きょうからきらいや!」
「これ、だまらぬか!」
茂左衛門が、青くなってとめているとき、
「ははは……。」
駕篭(かご)の中から、たのしげな殿さまの笑い声が聞こえた。
「飛騨(ひだ)、はきものをもたせよ。おもしろい小僧じや。余(よ)もいっしょに話したい。」
「しかし、殿−−。」
「よい、よい。」
足軽のひとりが、うしろから走りよって駕篭わきに皮ぞうりをそろえ、引き戸を開いて平伏(へいふく)した。もうひとりが、床几(しょうぎ:腰かけ)を持って小走りに橋を渡ると、門のわきのまつの根もとにすえた。静かに駕篭から現われた高松藩(たかまつはん)三代めの藩主、従四位下左近衛中将(じゅしい げさこん ちゅうじょう)、松平讃岐守頼豊(まつだいら さぬきのかみ よりとよ)は、そのときかぞえ年で54歳だったが、頭髪(とうはつ)はもう、ほとんど白くて、老人のようだった。顔色も青白かったが、気分ははればれとしているのか、ほおにも目もとにも微笑(びしょう)があった。
ゆっくりと歩いて、みじかい橋をお米蔵のほうへ渡った。
-4-
武士たちは頭をさげ、ほかのものは平伏して、頼豊を見送った。四方吉ひとりだけが、父の手で肩をおさえられながらも顔をあげて、平気で頼豊を見ていた。
「四方吉とやら、苦しうない、近うよれ。」
床几(しょうぎ)にかけて、頼豊がいった。両側には家老の大久保と、もうひとり、すもうの太刀持(たちも)ちみたいに中腰で頼豊の刀をささげ持った小姓(こしょう)とがいた。武士たちは大きな半円形で頼豊を囲んでかがみ、足軽たちは橋の手前にいた。
「うん−−。」
四方吉が立ちあがろうとするのを、
「これっ−−。」
茂左衛門がおさえたが、
「ご上意じゃ、かまわぬ。」
大久保が、うながした。四方吉は平気で頼豊の前に出ると、釣りざおを横に置いて、地べたにドシンとあぐらをかいた。
「四方吉、そちは昔なら大名(だいみょう)の子じゃというたな。」
「うん、いうた。」
「では、そちの先祖は、なんという大名なのじゃ?」
茂左衛門が、橋の中ほどで青くなって、平伏した首をもたげて手をふってとめようとしたが、四方吉はふりかえりもしなかった。
「うん、おらの先祖は信濃(しなの)の国(長野(ながの)県)佐久(さく)の城主(じょうしゅ)、平賀武蔵守成頼入道源心(ひらが むさしのかみ しげなり にゅうどう げんしん)や。力は十人力もあって、兵法戦術(へいほうせんじゅつ)の達人(たつじん)やったぞ。武田信玄(たけだ しんげん)と合戦(かっせん)して、天文(てんもん)5年(1536年)の12月に、信州海之口城(しんしゅう うんのくちじょう)で討(う)ち死(じ)にしたということやが、えらい強い殿さまやったそうやぞ。」
「ふむ、平賀源心が後裔(こうえい)というか。ならば、あっばれ一城の主じや。−−して、そちはそのようなこと、いったいだれに聞いた。父にか?母にか?」
「ばばはんじゃ。」
いつかきげんがなおって、四方吉はにこにこ答えている。ひざを無遠慮(ぶえんりょ)に、ぶるぶるゆすっている。
「茂左衛門、しかとさようか。」
家老が、橋の上の茂左衛門に問いかけた。
「ははっ。」−5− 茂左衛門は目を白黒して、こめつきばったのように、何べんもおじぎばかりである。
「御前(ごぜん)なるぞ、つつまず申せ!」大久保飛騨(おおくぼ ひだ)が、声をはげました。
「ははっ、なにぶん古いことで、いっこう定かでございませんが……、申しつたえだけはそのように……。らちもないことですが、その子の祖母で72歳になりますのが、なんぼとめましても、そい寝のおとぎ話のように……。事しわけございませぬ。」−6− もう顔じゆうが汗びっしょりで、茂左衛門はふるえながら答えた。
「ふむ。−−しからば四方吉、そのほうも、なれれば大名になりたかろうのう。」
頼豊(よりとよ)が、おだやかなことばで笑いながらたずねた。「うんにや、ちがう。」
四方吉が、いっそうにこにこして答えた。
「志度寺(しどじ)の周峯(しゅうほう)はんがいよったぞ。昔(むかし)は昔、今(いま)は今ちゆうこっちや。お殿はんはひとりでええ。み仏(ほとけ)の前では人間はみな同じことじやけんど、現世(げんせ)は現世で、やっばり、きまりというもんがあるちゆうこっちや。それをみなが守っていかんと、うまいぐあいにいかんのやいうて、いよった。」
「ほほう、志度寺の周峯めがのう。−−周峯は、そちの仲よしか。」
志度寺は、四国八十八か所の八十六番札所(ふだしょ)になっている名刹(めいさつ)である。
「うん。おしょうはんはお殿はんみたいにご病身で、このごろは、講釈(こうしゃく)はいつも周峯はんや。−−おらあ周峯はんに『論語(ろんご)』を習うとる。このあいだ習うた、『友あり、遠方より来たる。また楽しからずや。』−−きょう、おらがお殿はんにおうたようなんをいうんやろのう。」
「ふむ、友か。余(よ)はそちの友か−−。」
頼豊の、54歳にしては老(お)いすぎた、おとろえたうすいほおに、ほのかな徴笑が広がった。
「では、そちは、長(ちょう)ずればなにになりたい?」
「おらあ学者や。日本一えらい学者や。えらい学者になって、米も麦も魚も、ようけようけ(たくさん)取れるやり方考えて、お侍(さむらい)も百姓も、みんな金持ちにしてやるんや。−−お殿はん、見とってつかされよ。」
「うむ、学者か。殖産興利(しょくさんこうり)の学か−−。四方吉、そちはたのもしいことをいうのう。」
やわらかい目つきで四方吉を見ながら、頼豊の胸にはきゆうに深い感慨(かんがい)がよみがえっていた。−−識岐高松藩(さぬき たかまつはん)は、以前は生駒(いこま)氏というのが藩主だったが、寛永17年(1640年)に、失政を幕府(ばくふ)にとがめられて、奥州(おうしゅう)の小藩に左遷(させん)されていった。−7− そのあとに御三家(ごさんけ)の一つである水戸藩(みとはん)の先祖、徳川頼房(とくがわよりふさ:家康(いえやす)の子)の長男頼重(よりしげ)が封(ほう)ぜられて藩主となったもので、二代め頼常(よりつんね)をへて、当主(とうしゅ)頼豊(よりとよ)にいたっている。
禄高(ろくだか)は十二万石(まんごく)だが、瀬戸内海にそった気候のよい土地で、実収は多かった。初代頼重(よりしげ)は潅漑(かんがい:田畑に水を引くこと)の便(べん)をよくし、道路を開き、新田(しんでん)を開発したりした。しかし、藩をはじめたばかりで、経費(けいひ)も多く、かなりの赤字をつぎの代にのこした。
これを受けて、高松玉藻城(たまもじょう)二代めの主(あるじ)となった頼常は、じつは有名な水戸光圀(みとみつくに)の長男に生まれた人だが、光圀の考えで高松藩へ養子(ようし)にきたのだった。すぐれた人物だったといわれ、節約(せつやく)と産業(さんぎょう)の振興(ふっこう)で前代の赤字を全部すませたうえ、治世(ちせい)31年のおわりのころには、藩庫(はんこ)に慶長小判(けいちょうこばん)二十万両をたくわえるほどに、藩自身も、住民をも富ませた。
ところが三代めの頼豊の時代になると、四方吉がいったとおり、日本全土にいろんな天災(てんさい)がおそった。それは、江戸(えど)まで灰(はい)が飛んだとつたえられる有名な宝永(ほうえい)4年(1707年)の富士山の噴火(ふんか)をはじめ、京(きょう)・江戸(えど)などの大火、全国的な洪水(こうずい)・かんばつ(ひでり)・地震(じしん)、おまけに疫病(えきびょう)の大流行などと、つぎつぎにひどい災害(さいがい)がおこった。−8− 讃岐(さぬき)の国も例外ではなかった。頼常のときにようやく整った財政も、しだいに窮乏(きゅうぼう)した。
いま、年老いた頼豊はむじゃきな四方吉の顔をながめて、回想する。
−−しかし、わしはくじけなかった。藩士(はんし)たちにも、禄(ろく)を二分の一、ひどいときは四分の一にもけずるのをがまんしてもらって、非常時財政(ひじょうじざいせい)をしいた。
そして収入の不足をおぎない、なんとかよゆうをつくって農民の租税(そぜい)をめんじ、金や米など貸しあたえた。
−−わしは、つらかった。けれども、他国のようにおおぜいの死者を出すこともなく、わしはこの困難をのりきった……。「のう四方吉−−。」しばらくして、頼豊がいった。
「おまえは人間のすることで、なにがいちばんたいせつじやと思うか。」
「恩を知ることや。恩を知って恩返しをすることや。そういうて周峯はんが教えてくれた。」
すぐに、四方吉は答えた。血色のいいほっぺたに、子どもにはめずらしい高い鼻があって、細い、切れ長の目がきらきらと、星のようにかがやいていた。
「おらは天地の恩を知っとる。お殿はんの恩を知っとる。おとうはんや、おたあはん(母)や、おばばはんの恩を知っとる。−−米を作る百姓や、魚を取る漁師(りょうし)の恩も知っとる。おらはそれを、千倍にも万倍にもして世の中にかえしたるんや。なあ、お殿はん。」
「そうか、周峯がそう教えたか。」
「うん。けんど多和神社(たわじんじゃ)の神主(かんぬし)さんも、同じこといよったど。ちょうちん借(か)りて礼はいえど、日月(じつげつ)に礼はいわぬ−−いうて。目に見えん、大きな恩はついわすれるもんやろ。」
ははは、と、頼豊の微笑は、いまは声に出る笑いに高まっていた。
(満4歳そこそこで、なんというかしこい子だろう。しかし……この子ひとりではない。まだ20歳をこしたばかりというのに、すぐれた学間を身につげ、静かな人格をいよいよ深めている志度寺(しどじ)の周峯(しゅうほう)。国学と歴史にうちこんでいる多和神社(たわじんじゃ)の神官(しんかん)の松岡春房(まつおか はるふさ)−−この志度だけでも、ほかにもたくさんの人材がおる。わしが病身にむちうって、領内(りょうない)をしのび歩くのも、こうした人材を知るためじゃが、どうかこれらのひとりびとりが、まっすぐにのびて、お国のためにつくしてくれるように……。)
頼豊は、祈るように思った。長いあいだの努力(どりょく)と辛抱(しんぼう)で、経済も回復して、いまでは藩士たちにも昔のとおりの俸禄(ほうろく)をわたしている。領内の民たちが、どんなくらしをしているかと見て歩く、しのびの巡回にも、人々は神さまのように自分をおがんでくれる。しかし、この繁栄(はんえい)を、いっそう永遠のものにするためには、あくまでも人材の登用がたいせつなのではないか。−9− 「飛騨(ひだ)−−。」ふりかえって、頼豊はよんだ。
「はつ。」
「縫殿(ぬい)、彦兵衛(ひこべい)−−。」
「ははつ。」
「そちたちも、見知っておげ。小僧はいつまでも小僧ではない。−−やがて大木となって、国の大事をになおうぞ。」
家臣たちをかえりみる頼豊の目は、もうきびしい、風雪(ふうせつ)にきたえられた領主の目であった。
「はつ!」
三人の武士たちは、この名もない志度浦のお米蔵番、三人扶持(ぶち)の足軽(あしがる)、白石茂左右衛門(しらい しもざえもん)の子、四方吉(よもきち)の顔を、あなのあくほど、じっと見つめた。
「お殿はん!」
むじやきな声で、四方吉はいった。
「もう、うちへいぬ(帰る)。いんで昼寝する。−−こんど来たら、うちへよって茶あ飲もうなあ。」
「よいとも。」
頼豊は、ゆったりとうなずいた。橋の中ほどでは、なおも茂左衛門がはいつくばって、消えてしまいたいように恐縮(きょうしゅく)して、冷汗(ひやあせ)にまみれてふるえている。
四方吉は、釣りざおをかついで、えがおで頼豊におじぎすると、いちもくさんに町のほうへ走っていった。うわさのつたわるのは早い。ことに、志度のような小さな町では、町全体が親戚(しんせき)どうしのようなものである。
あくる朝、四方吉がいつものお堀ばたの遊び場に出てみると、もうきのうの話に尾ひれがついて、たいへんなさわぎになっていた。
「四方吉が殿さまを、えろう、やっつけたちゆうぞ。」
「おう。お殿はんは、びっくりぎょうてん、うまで高松へにげて帰ったわ。」
「おとうはんとおたあはん(母)がえろうおこったそうやが、おばばはんが四方吉のひいきして、さかさまにどなりつげたちゆうが。」
浦のがき大将(だいしょう)どもが、どこで聞いてきたのか、大声で話しあっていた。
しかし、話はおおげさになりすぎていたにしても、お殿さまがうまでにげたは別格として、ほかは、かならずしも根も葉もないことではなかった。−10− −−きのうの夕方、四方吉が昼寝からさめてみると、仕事から帰った父の茂左衛門が、病身の母のまくらもとにすわって、しょげかえっていた。そしてその横で、おばば(祖母)が父をにらみつけていた。
「茂左よ、四方吉のいうたのは、うそじやなかろうが。」
おばばはいっていた。
「わが家のご先祖は、たしかに信濃(しなの)の国の城主(じょうしゅ)、平賀源心(ひらがげんしん)さまじゃ。その子孫の平賀二郎国宗さまが奥州に移って伊達(だて)さまに仕え、白石というところに住もうたので、苗字も白石と改めなさった。」
「おばば、何ぺん同じこというんじゃ。その話、子どものときから聞きたっとるぞ。」−11− 「いや、何ぺんでもいう。−−それから、国宗さまの何代かの孫にあたる白石国家さまの時代に、伊達遠江守宗利(だてとうみのかみむねとし)さまが、仙台から、分家の伊予(いよ)の国(愛媛県:えひめけん)宇和島(うわじま)の城主になってこられるときに、お供して、はじめて四国に来たんじゃ。家老さまみたいな高いご身分じやった、というこっちゃぞ。それが、おまえのひいじいさん(曽祖父:そそふ)やないか。」
「わかっとる。けんど、なんぼご先祖がご城主さまでも、家老さまでも、今のわしは、足軽格のお蔵番やないか。−−おばばが、いつもそんな、夢のような昔話ばかり聞かすもんじゃから、四方吉がなまいきになって、えらがって、こまるぞ。」
「うんにゃ、四方吉はかしこい子じや。この讃岐(さぬき)の国に、あんなかしこい子はほかにおらん。かならずご先祖さまに負けぬ、えらい人になるじゃろう。わたしは四方吉に、ご先祖のほこりをのうせんように、いつも話してやっとるんじゃ。−−おう、四方吉、目がさめたか。」
茂左衛門にはむずかしい表情でいったが、四方吉が起きたのを見ると、よってきて、たちまちやさしい声になって、目を細めてだきあげた。
人間は、年をとると、がんこになる。おばばさまは、もう七十を二つも過ぎて、頭髪(とうはつ)はすっかり白くなっている。父の茂左衛門が、その日の四方吉のお殿さまへの無遠慮(ぶえんりょ)を話して、ぐちをこぼしたので、しかりつけていたのだが、ひとりきりの孫(まご)の四方吉は、目に入れてもいたくないらしい。
「−−それが、おまえのおじいさまにあたる十郎兵衛国行(じゅうろうべえくにゆき)さまの代に、讒言(ざんげん:うその告げロ)におうて、伊予(いよ)の国を追われ、讃岐(さぬき)に移(うつ)ってきて、こんな低い身分になられたのじや。−−けんど、この子がまた、きっと家の名をあげてくれる。なあ四方吉。」
そういって、おばばさんは、目覚めたばかりの西方吉に、ほおずりしたのだった。−−うわさは、子どもたちのあいだだげではなかった。父の茂左衛門が、朝、仕事にお米蔵に出るころには、「四方吉さんは神童(しんどう)というんじやろ。お殿さまも、感心して聞いておられた。いずれお召し出しがあるじやろ。」
「てんぐさまの再来じや。いや、志度の小てんぐとはあの子のことじやのう。」
お米蔵の従業員たちが、日々にほめそやしていた。
茂左衛門は、そんなことばを聞くと、かえってにがりきった。
(百姓の子は百姓の子らしく、足軽(あしがる)の子は足軽の子らしく、ほどほどのできばえでないとこまる。足軽の子が、なまじっか神童などといわれては、身分不相応(ふそうおう)の高い希望を持つようになる。それはかならず、世間(せけん)をみだし、深い絶望におわるねがいにきまっているのだ−−。)−12− 茂左衛門は、そんなに考えると、心配でたまらなかった。今とちがって、当時は徳川幕府の支配する、封建制度(ほうけんせいど)の世の中だった。将軍(しょうぐん)は将軍、大名(だいみょう)は大名、武士(ぶし)は武士、百姓は百姓−−生まれたときから、一生の身分がきまっていた。百姓が家老(かろう)になろうと思っても、どんなに才能があっても、なれる気づかいはなかった。足軽の子が、大名にまで昇進したり、豊臣秀吉(とよとみひでよし)のように、天下を取ったりするのは、もう大昔の、戦国時代(せんごくじだい)の夢物語だった。
人間の、才能とか努力とかによってでなく、どこに生まれてきたかという偶然(ぐうぜん)だけが、その人の一生を支配する社会だった。
ほめる人ばかりではなく、中にはなまいきだと、四方吉をそしる人も、かげではきっとあるはずだった。直接、耳には聞こえてこないが、茂左衛門の心の耳には、そんな人々の陰口(かげぐち)までが、いたいほどに聞こえるのだった。
けれども四方吉は、うわさなどにとんじゃくする年齢ではなかった。
がき大将どもと走り回るだけではなく、四方吉の家のすぐうしろの小高い森にある多和神社(たわじんじゃ)に行って、神官の松岡春房(まつおかはるふさ)から習字(しゅうじ)や和歌(わか)を教わったり、東の海べの松林にかこまれた志度寺(しどじ)に行って、小坊主(こぼうず)あがりの周峯(しゅうほう)に、算数や漢文を習ったりする。どの科目でも、四方吉はずばぬけてよくできて、三つ四つ年上の少年たちに負けなかった。
ある朝早く、四方吉は志度寺へ行く道で、海岸に出た。四つ五つ年上で、四方吉をいちばんかわいがってくれる渡辺桃吉(わたなべももきち)といっしょだった。
「桃吉あにさん、きれいな海やなあ。波が金色に光っとるわ。あにさんの家の船、あの波の上を走って、浪華(なにわ:大阪)へ行くんやろ。」
「そうや。お天気がよかったら、浪華やこし、ひとっ走りや。」
桃吉が答えた。桃吉の家は志度では古い家柄だった。苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされた名家で、宇治屋(うじや)といって、米や麦やそのほかの農産物を、船で大阪に送る回送業(かいそうぎょう)を営んでいた。
「おらあ、あにさんの船で浪華へ行ってみたい。浪華へ行って、にぎやかな開(ひら)けた町を見たい。」
四方吉は、海のむこうの遠い広い青空にいった。すぐ沖に真珠島があり、はるかに小豆島(しょうどしま)が、春がすみの中に、その骨ばったからだを横たえていた。瀬戸の海は朝日を受けて、目のくらむような無数の金色の矢が、波のおもてにはねおどっていた。「四方吉!」
突然、桃吉(ももきち)が大声でよびかけた。
「山へのぼろうか。−−おやくりさんへ!」
「おやくりさんか? おう、のぼろ!」−13− 四方吉が、目をきらきらさせて、桃吉を見あげて答えた。
「高い山へのぼると、遠くが見えるぞ。おやくりさんからなら、浪華(なにわ)も見えるかもわからん。のう!」
桃吉は、遠い目をして、西北の方5キロほどにそびえている八栗山(やくりやま)を見あげた。
八栗山----一般の地図には、五剣山(けんざん)と書いてあるだろう。その同じ山である。
志度(しど)と高松(たかまつ)の中間にとび出している小さな半島の主峯で、も一つむこうの半島が屋島(やしま)である。
八栗山は標高(ひょうこう)が370メートルで、かくべつ高い山ではないが、山頂に四国第八十五番の霊場八栗寺(れいじょうやくりでら)があって、地元の尊崇(そんすう)をあつめている。
「おらのうちで、にぎりめし、つくらせるわ。」
桃吉がいって、ふたりは気おいこんで浜から町へ走って帰った。
桃吉の家の店先では、男女の召便いがいそがしそうに働いていた。
ふたりは志度寺の周峯と四方吉のおばばさんへの伝言(でんごん)をたのんでから、弁当(べんとう)と新しいはきかえのぞうりとを腰にむすびつけ、意気ごんで家を走り出た。
八栗山への街道(かいどう)には、ちょうど春の巡拝(じゅんぱい)の季節のことでもあって、白衣姿(びゃくえすがた)のお遍路(へんろ)さんが、3人、5人と群れをなして通っていた。
3キロあまりで牟礼(むれ)の村にはいると、道が二本に分かれていた。西へ直進するのがお城のある高松への道で、右にまがって真北にむかうのが八栗山への登り道であった。桃吉は以前、父とのぼったことがあるし、遍路たちもそちらへまがっているので、まようことはなかった。
やがて道は、山にかかる。ふもとの野道では、たんぼぼやれんげそうの花ざかりだったが、山道になると、一変して、まつや潅木(かんぼく:低木)の世界になった。 道はしだいにけわしい登り坂になる。「あにさん、この坂、どのくらいあるんしやろ?」
「うん、みんなで18丁(約2キロ)やそうや。四方吉、のぼれるか?」
「平気じゃ。一足一足のぼったらええ。ほんだら、しまいに行きつく。」
まっかな顔で、四方吉は、さも平気そうに、両手を大きく振った。
「あにさん、この花、なんの花じゃ?」
道の両側には、山すそいっぱいに、つつじが咲いていた。やまつつじとおおむらさきで、やまつつじは赤と白の花だが、おおむらさきは桃色がかった紫の花をつけていた。その紫の花を、四方吉は指さしてたずねた。−14−
「ああ、それか。それは、つつじじや。」
「つつじいうたら、あれやないか。」
赤と白のやまつつじを指さして、四方吉はほおをふくらませた。
「お多和さん(多和神社)の参道にも咲いとる。つつじいうたら、白と赤の花やないか。」
「うん。げんど紫のも、やっばりつつじじゃが。」
「なんでほんだら同じつつじに、赤や紫や、ちごうた花が咲くんじゃ?」
四方吉は、いっそうほおをふくらませた。
一瞬、桃吉はぎょっとした。
(そういえば、ほんとになぜだろう? なぜ、こんなにいろいろと、色のかわった花が、同しつつじに咲くのだろう?)
桃吉は、ふしぎに思った。しかし桃吉自身も、まだやっと、十歳をこえたばかりの少年だった。考えてみても、わからなかった。
「なんでいうても、いろいろ咲くんじゃ。−−昔からそうや。」
3人づれの、年よりばかりのお遍路さんが、立ちどまっているふたりをおいこしていった。
「四方吉、いそげ! いそがんと、みんなにおいぬかれるぞ!」
考えるのが、めんどうくさくなって、桃吉はおこったようにいって、突然小走りに坂をのぽりはじめた。
道はいよいよけわしくなって、ごつごつした火山岩(かざんがん)のころがった石ころ道になる。いましがたおいこしていった3人のお遍路さんは、年よりのこととて、たちまちふたりにぬきかえされた。−15− 「あにさん!」
その3人をふりかえって、四方吉がいった。
「あのお遍路はん、かさに『どうこうににん』と書いたるけんど、どうしてや?」 桃吉がふりかえると、すぐ目の下の道に3人はいた。
「なあ、三人やないか。―−それやのに、三人とも、なんでみな、ににんと書いてあるんや?」
なるほど、すげがさには、どれも『同行二人』と、太い墨字で書かれていた。
「あれか、あれは、どうぎょうと読むんや。人間はびとりびとりやけど、みんなお大師(だいし)さまとふたりづれやというんや。四国八十八か所の霊場(れいじょう)を開いた、弘法大師(こうぼうたいし)さまといっしょにお参りしとるというつもりや。」
「ほんだら、お大師さんいうたら、そんなにようけ(たくさん)おるんか? 何百人も、何千人も−−?」
桃吉は、うんざりした。
(この子といっしょにおると、これをやられるから、かなわん−−。)
桃吉はめんどうくさくて、ときどきぶんなぐってやりたい気待ちになる。しかし、すみきった目をきらきら光らせて、真剣にたずねている四方吉の表情を見ていると、ついひきいれられて、だれにたずねてでも、教えてやりたい気持ちにかわってくるからふしぎであった。
「そうやない。お大師さんはひとりきりや。もう大昔に死んでしもうた人やないか。そやけど、みんなの心の中に、いつでもおるということや。」
「心の中て、どのあたりや?」
「このあたり……。」
自分の胸をさして、いいかけてから、あわてて桃吉はロをつぐんだ。考えてみると、自分にもわからない。ものを考えているのは、目や口のある頭の中のような気もするし、かといって、胸に問えとか、胸の中にとか、おとなからいわれると、胸の中みたいな気もする。−−はたしてお大師さまは、どのあたりにいるのか?
「もっと大きくなったら、わかるやろ。」
自分にいうように、桃吉は不愛想(ぶあいそ)にいった。
道はけわしかったが、あるところまで行くと、きゅうに平地になって、空がいちめんに、目のまえに広がった。−−山頂に出たのだ。志度寺よりも大きな八栗寺が横手にあったが、桃吉は見すごして、なおも頂上にいそいだ。展望(てんぼう)の台地に着いたのは、11時ごろだったろうか。
「うわあ、よう見えるわ!」−16−
四方吉がさけんだ。
目の下には、小豆島(しょうどしま)が箱庭(はこにわ)のようだった。志度のほうへぐっと腕をのばした小豆島の釈迦ケ鼻(しゃかがはな)は、段々畑(だんだんばたけ)まで見えそうな近さだった。
小豆島の手前と左手には大きな海があって、春の日にちかちか光るのが、このうえもなく美しかった。円弧(えんこ)をえがいた水平線の上に、備前(びぜん:岡山県)の山々がはるかに遠く、けむりのようなうすいあい色だった。
「あそこが志度浦じゃ。」
東南をふりかえって、桃吉が指さした。志度の町並みはおもちやよりも小さくて、大きな志度寺も見わけられなかった。むこうにはいっそう広い播磨灘(はりまなだ)があった。まるい水平線の上に、遠く淡路(あわじ)の島がけむっていた。
「あの島のなあ、すぐむこうの海の、そのまたすぐむこう岸が、浪華(なにわ)じゃ!」
このまえ、父に教わったとおりに、桃吉は淡路(あわじ)の島かげを指さしていった。
「おう、あしこが浪華か! あにさん、おらあ浪華へ行くぞ!」
四方吉はさけんだ。
多和神社の秋祭りのときに、広い境内(けいだい)をうずめつくした物売りの店や、かずかずの見せ物など−−浪華のにぎわいは、それを何十倍、何百倍にしたものだと、四方吉は桃吉の父に聞かされて、胸をおどらせたものだった。その浪華は、この海の、すぐむこう岸なのだ!
小さな足をふんばり、燃えたつように赤々とほおを輝かせて、遠い大空にながめいっている幼い四方吉の顔を見ていると、桃吉は、つれてきてやってよかったといった満足感(まんぞくかん)が胸にあふれてきて、なぜか涙ぐみそうになった。桃吉は、さらに東をさして、
「浪華から、ずっとずっと東へ行くと、将軍さまのおる江戸や。」
「江戸か、おらあ江戸へも行く!」
こんどは西をむいて、桃吉は指さした。
「あれが屋島(やしま)、そのむこうが高松のお城じゃ。その海をずっとずっと西へ行くと、九州(きゅうしゅう)じゃ。九州には長崎(ながさき)という港があって、遠い唐土(もろこし:今の中国)や南蛮(なんばん:東南アジア方面)から、大きな大きな黒船が、日本にはないめずらしい産物をつんでやってくるんじゃ。」
「おう、南蛮か。南蛮は異国(とつくに)じゃなあ。おらあおばばはんに聞いた。おらあ大きうなったら、海を渡って南蛮へも行く!」−17−
「うん、行ってきたらええ。−−のう、四方吉、見てみい。海は沖のほうで、まんまるうに見えるしやろうが。−−それはのう、世界というもんは、まんまるいからじゃ。まるい一つのたまなんじゃ。そのたまの、ずっとずっとむこうの、海のむこう岸に、南蛮(なんばん)や唐土(もろこし)があるんじゃ。船に乗ったら行けるわ。」
桃吉は、このまえここで父に教わったとおりに話した。桃吉の父は回送業で、現代風にいえば輸送業、貿易商(日本国内のだが……)だから、日本のことについても、外国のことについても、広い知識を持っていた。
「おう、周峯はんも、いつやら世界はまるいんじゃというとった。おら、異国(とつくに)へも行きたい。けんど、いちばんさきに、あにさんの家の船で浪華を見たい! あにさん、いっしょに行こ!」
「おう、行くとも、四方吉!」
きらきら輝いているこの四方吉のひとみを見ていると、桃吉はなぜか、四方吉の思うとおりにしてやらねばいられないといった、はげしい情熱を感しるのだった。桃吉は、思わずさけんでいた。
(神童とか、志度の小てんぐとかいわれているこの四方吉。−−おらはすこしぐらいは学問がようできても、つまり、ふつうの人間じやが、こいつのできぐあいは、だいぶんちがうようだ。おらはなんとか、こいつの手助けをしてやって、こいつをどえらい学者にしてやりたい!)
桃吉もまだ少年であった。こうして文字で書きあらわすように論理正しくは考えなかったけれど、思ったことはそれだった。−−のちになって家督(かとく)を相続(そうぞく)して宇治屋(うじや)六代めの主人となり、渡辺伝左衛門(わたなべでんえもん)と名乗るようになっても、桃吉のそのねがいは終生かわらなかったのだが……。やがてふたりは山頂の台地にすわりこんで、弁当を広げた。
春の日が、うららかに照っていて、風がこころよかった。おかずのたくあんづけが、かわいたのどを、このうえもないうまさでとおった。−18−