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浪華(なにわ)のにぎわい

 それから5、6年の歳月が、夢のように流れた。
 元文(げんぶん)4年(1739年)の冬のはじめのころだったというから、四方吉はもう数え年で12歳になっていた。
 −−それまでの5、6年のあいだは、四方吉の身の上には、さしたることはおこらなかった。7歳の正月からは、多和(たわ)神社の境内(けいだい)で、松岡春房(まつおかはるふさ)について剣道を習いはじめ、文武両道(ぶんぶりょうどう)の日々だった。
 しかし、この間に、高松藩(たかまつはん)にはかなしいできごとがあいついで起こっていた。まず、三代めの領主(りょうしゅ)の頼豊(よりとよ)が、四方吉とあった年から2年めの秋に、江戸(えど)の藩邸(はんてい)でなくなった。
 翌年は年号がかわって元文(げんぶん)となったが、その4年に、頼豊のつぎの頼桓(よりたけ)が20歳のわかさでなくなった。わずか5年のあいだに二代にわたる当主が死亡したのである。そのあとをついだのは、奥州守山藩主(おうしゅうもりやまはんしゅ)、松平家(まつだいらけ:水戸(みと)の分家(ぶんけ))から養子(ようし)にきた頼恭(よりたか)であった。
 頼恭は、のちに成長した四方吉にとって関係の深い人になるのだが、今のところは直接の関係はない。
 ともかく、頼恭が9月18日に29歳で新しい領主に任ぜられたその年の、冬のはじめのある日であった。
「おうい四方吉(よもきち)、おるか!」渡辺桃吉(わたなべももきち)が、満面を笑いでくずして、いせいよく四方吉の家にあらわれた。
「とうとう許可が出たぞ! 渡華(なにわ)へ行けるんや。あさっての船や!」
「ええっ、ほんまですか!」
 玄関に走り出てきた四方吉は、喜びと驚きで棒立ちになった。
 四方吉が12歳になっているのだから、桃吉はすでに17歳であった。りっぱな一人前の青年であった。
「ほんまやとも。おれの家は、昔は京(きょう)の宇治(うじ)の武士(ぶし)で、五代ほどまえに讃岐(さぬき)に移ってきて、郷士(ごうし:いなかにて、藩主に直接に仕えていない武士)になったんや。それで屋号(やごう)も宇治屋(うじや)というんや。
 そやから、京(きょう)・浪華(なにわ)には古い親戚(しんせき)がたくさんあるんやが、そのうちの一軒で、加賀屋統兵衛(かがやとうべい)という家へ、おれの姉のおゆらさんが嫁入(よめいり)りすることにきまったんや。加賀屋は唐反物問屋(からたんものどんや)や。」
「それはおめでとうさん。」
 四方吉はていねいにお祝いをいった。
「唐反物問屋なら、めずらしいものをようけ見せてもらえますねえ。」

−19−


「うん。まあそう思うんやが……。」
 桃吉は、自信はないようであった。
 唐反物問屋というのは−−長崎(ながさき)へ、中国やオラソダなどから、黒船(くろぶね)で船来品(はくらいひん)がはいる。
 それを買うことのできるのは、五箇所(かしょ)商人といって、きょう(きょう)・長崎(ながさき)・江戸(えど)、それに浪華(なにわ)の、きめられた商人だけであった。当時は完全な制限貿易(せいげんぼうえき)で、異国(いこく)からくる船は、幕府(ばくふ)から船の数をきめられていたし、一年じゆうに売り買いできる品物も、たとえばオランダは銀三千貫目、中国は銀六千貫目の値段(ねだん)に相当するだけのもの、といったぐあいに、きめられていた。五筒所商人たちはその予算の範囲(はんい)内で、長崎で舶来品を入礼(にゅうさつ)して買うのである。そしてそれらの品物は、ほとんど全部、いったん船で浪華にはこんでから、全国へ売りさぱかれることになっていた。
 その指定商人である五筒所商人にも二種類あって、一つは唐薬問屋(とうやくどんや)といって、薬とか香料(こうりょう)とか砂糖(さとう)とかをあつかい、もう一つが唐反物問屋(からたんものどんや)といわれるほうで、このほうは、主として絵(え)の具(ぐ)や白檀(びゃくだん)や象牙(ぞうげ)、糸、織物、唐小間物なんかの、めずらしいものをあつかうのである。加賀屋はその後者のほうであった。
「うれしいなあ。ほんだら、なおのことめずらしいものが見られるわけや。」
 桃吉からそんな説明を聞いて、四方吉はいっそう興奮した。
「うん。しかし、おとうはんやおたあはんにも、よう相談せんといかんぞ。」
 四方吉のねがいは、父や母や祖母にゆるされた。他国旅行のやかましい封建閉鎖社会(ほうけんへいさしゃかい)だったが、寺社参拝(じしゃさんぱい)の旅だけは制限がゆるかったので、志度寺の周峯(しゅうほう)にたのんで、お寺参りの書付(かきつけ)をこしらえてもらった。

−−旧暦(きゅうれき)10月20日未明、船は志度の港を離れた。
 船は明けきらぬ志度港を、静かにすべり出ていく。
 帆(ほ)がいっぱいに張られて、しだいに船足(ふなあし)ははやくなる。真北ヘ−−小豆島(しょうどしま)の、かすかな島かげをめざして、船は進んでいく。
「ああ、わかっとります。」

−20−


 やがて日の出であった。それは志度の海岸で見る日の出とは、くらべものにならぬ壮麗さであった。
 はしめに、ひとすじだけ海面に走り出た金色(こんじき)の矢は、たちまち何十本かの金(きん)の矢になり、すぐに金色の光の滝になった。海は船のすぐまえまで、金色に光り輝くあわの無数の葉団となった。
「うわあ、きれいだ!」
「うん、きれいだ!」
 ふたりは目のくらむ感動にうたれて、のぼる太陽と照りはえる海面に見いった。
 やがて、太陽がしだいにのぼっていくと、朝のやみは去って、今まで黒々としていた遠い海も島もが、青い、緑の、それぞれの姿をあらわしてくる。
 白帆が、五つ、六つ、八つ、潅の上をすべっている。みな四方吉たちの船と同しくらいの大きさで、西へ行くもの、東へむかうものといろいろだった。
「ううん。」
 うなって四方吉は、すれちがっていく船に見とれていた。志度(しど)は天然(てんねん)の良港で、船は幼いときから見なれている。しかしそれは停泊(ていはく)している船であり、自分とは無関係に沖合(おきあ)いを動いていく船にすぎなかった。
 いま、こうして自分自身が海を走っていると、船はべつの『生きもの』であった。それは波にうちあたって、ぐっと右肩をそびえさせていばってみたり、すこしずつかわっていく風むきにハタハタと音をたてて、そでをひるがえすように自分で帆のむきをかえたりしている。
 四方吉が乗っている宇治屋の船は、一般に桧垣船(ひがきせん)とよばれている貨物船だった。両舷(りょうげん)に、船首から船尾まで、ひのき(桧)のかきがあるのでこの名がある。加賀屋(かがや)の荷をつんで長崎(ながさき)まで行き、長崎から、中国やオラソグの品々をつんで、浪華(なにわ)への帰り道だった。五百石(こく)ほどつめる船だから、当時の民間船としては大船に属するが、現在のトソ数に直すと80トンあまりで、たいした大きさではない。
 しかし四方吉には、現在のわれわれが、何千、何万トンという大きな船に乗るほどに思えた。−−風は西からの追い風、波もおだやかで、船は調子よく走った。それでもその日は、播磨灘(はりまなだ)の途中で日が暮れた。

−21−


 翌朝目ざめて、すぐ甲板(かんぱん)にかけあがってみると、海峡(かいきょう)だった。右には大きな島の岬が、左には広い一面(めん)の海岸とその背後の大きな山々が、一点の雲もない朝晴れの中に、あざやかなもみじの朱(しゅ)と、まつやすぎの緑を織(お)りまぜて、まるで目の前にある感じだった。海峡(かいきょう)の幅はせまいので、右にも左にも、無数の船が、朝日に帆を純白に照りはえさせて行きかっていた。
「うわあ、あにさん、ようけの船や! もう浪華(なにわ)へ着いたんやろか。一日の出船千ぞう入り船千ぞうと、本に書いたったげんど、ほんまやなあ!」
「いや、浪華はまだや。」
 桃吉は右が淡路島(あわじしま)、左が須磨明石(すまあかし)と説明した。−−明石海峡(あかしかいきょう)であった。
 −−四方吉が、行きかう船の多さに驚いたのは、むりもなかった。日本の航海は、戦国時代の末期や織田豊臣(おだとよとみ)時代には、大船をしたてて中国大陸(ちゅうごくたいりく)の沿岸各地(えんがんかくち)はもとより、今のペトナム・マライ・タイ・フィリビンから、遠くはジヤワ・ポルネオにまで、貿易(ぼうえき)に出かけていたのだった。
 その実力が、徳用幕府の鎖国政策(さこくせいさく)で国内にとしこめられたのだから、国内航路は瀬戸内海や大阪−江戸間の航路ばかりではなく、、遠く秋田県(あきたけん)や青森県(あおもりけん)から日本海を西にくだって、下関(しものせき)から瀬戸内海にはいり、大阪をへて江戸にいたるといった、とほうもなく長い定期航路(ていきこうろ)までできていたのである。
 順調すぎるほどに順調な航海だった。四方吉の乗った船が浪華に着いて、安治川(あじがわ)をのぼりはじめたのは、その日の夕方まえだった。
 志度を出港したのが前目の夜明けまえだから、まる二日(ふつか)にも満たない早い航海だった。
「やっぱり浪華は、えらいところや!」
 四方吉は、目をまるくしてながめつづげた。安治川には、四方吉たちの船のように、遠方からきた多数の船がのぼりくだりしているほかに、無数の小さなはしけが、みずすましのように、機敏に走っていた。
 船がさらにさかのぼって中ノ島(なかのしま)になると、両岸のまばらな人家と枯(か)れあしのはえたどろ地(ち)の風景は一変して、川ぞいはじょうぶそうな石がきで、白い壁を持った各藩の蔵屋敷(くらやしき)が立ちならび、小さな運河(うんが)が、大川からそれらの蔵屋敷の中ヘ、直角に引きいれられていた。

−22−


 やがて船は、そのうちの一つの前でとまった。高松藩(たかまつはん)の蔵屋敷(くらやしき)である。専用の運河から、半円形にまん中の高くなったみじかい太鼓橋(たいこばし)をくぐって、何隻かのはしけがこぎ出てきて、船の横腹にびったりよりそった。
 荷物(にもつ)は藩(はん)の御用のものをつんでいたし、どちらにしても暗くなって荷揚げができないので、母船(ぼせん)はそのまま、その夜は藩邸(はんてい)の浜に仮泊(かはく)することになった。
 伝左右衛門(でんざえもん)と娘のおゆらだけは蔵屋敷にとまることになり、宇治屋(うじや)の番頭(ばんとう)や四方吉たちの一行は、船員の一部とともに三隻のはしけに乗り移って、さらに大川をさかのぼった。
 すっかり夜になって、はしけはちょうちんをともしていた。面岸はにぎやかな町で、明るい燈火が川にうつって美しい。
 しばらくして、はしけは右に、かなり広い運河にはいった。
「どこへ行くの?」
「加賀屋さんのおうちでござります。東横堀(ひがしよこぼり)いうところで、唐反物間屋(からたんものどんや)の集まった町でござります。みな加賀屋さんのご一統(とう)でござります。わたくしが、お迎えに参(さん)じました。」
 横に立っていた背の高い、わかい男が答えた。
 そのとき、ドーンドーンと間(ま)のびした太鼓(たいこ)の音が、町のどこからか、聞こえてきた。
「あにさん、あれはなんや?お奈りか?」
「なんやろ?」
 桃吉も首をひねった。
「あの音でござりますか−−。」
 そのわかい男が、ふたりを見て、いった。
「あれは時を告(つ)げる、夜番の太鼓でござります。ただいま戊の刻(いぬのこく:8時)でござります。あの太鼓で、どこでも一日の仕事を、おしまいにしやはります。−−へい。」

「大阪では−−。」
と、そのわかい男はことばをついだ。

−23−


「あと、亥の刻(いのこく)と丑の刻(うしのこく)に、夜番が太鼓をたたきます。−−江戸では、ひょうし木をうちはるそうですが……。へい。」
「あんたはん、物知りやなあ。」
 四方吉がいった。桃吉は四方吉を手で制して、
「わたしは志度の宇治屋のせがれ、桃吉です。この子は白石四方吉。−−浪華におるあいだ、いろいろ教えてください。」
ていねいにあいさつすると、わかものは桃吉のほうにむきなおって、
「ごあいさつがおそうなりまして……、わたくし、加賀屋の奉公人の松造だす。」
 いっそうていねいにおじぎをかえしたが、四方吉にも、子どもだからといって、くずさずに、同しようにていねいにおしぎした。桃吉よりも三つ四つ年長のようで、二十歳(はたち)そこそこらしい。
「教えるなんて、とんでもおまへんが……まあ、できますことはなんなりと……。」
「ほんだら−−。」
 四方吉が、さっそくに例の質問ぐせを出した。
「浪華には、いったい人間の数は、みなでどのくらいおるんやろ?」
「へい。四十万人とか……。しかとではござりませんが、聞いております。」
「四十万人!」
 四方吉は、おどろきあきれた。志度浦(しどうら)には何人いるだろう。五百人か? 千人か? 家が二百軒として、五人平均なら千人だ。十倍で一万人、百倍で十万人、なんと大阪には、志度の四百倍もの人がいるのか!
「ほんだら、江戸にはいったい、なんぼ(どれほど)おるんやろ?」
「さようです−−。」
 わかものは、微笑して首をかしげた。
「たしか……百万人と聞いておりますが−−。ほぼまちがいございませんでしょう。」
「百万人!」

−24−


 四方吉は、もう一度あきれた。いなかでは神童などといわれていても、これまでに、かつて考えてみたこともない数字だった。千人の千倍、志度の千倍、勘定(かんじょう)ぼすぐにできたが、およそ実感はわかなかった。
(それにしても、江戸とか渡華とかいうところは、おそろしいところや。なるほどたくさんの船が、毎日荷物をはこんでくるはずや。町やあきないばっかりやない。この人にしても、たかが店屋(みせや)の奉公人(ほうこうにん)やというのに、なんでもよう知っとって、えらいことや!)
 四方吉は一瞬、浪華という化(ば)け物のような大きな都会に、自分の小ささを思いくらべてれっとうかん(れっとうかん)を感じたが、しかしそれは、ほんの一瞬間でしかなかった。
(そうや。おらは浪華で、見られるだけのものを見ていくんや。どんなことでも人間のすることなら、おらにできんはずはない! おらはなんでも見て、その上をこす仕事をしあげてやるんや!)
 すぐに持ちまえの負けじ魂(たましい)が、むくむくと首をもたげた。
「着きましたようです。」
 わかものはいって、岸を指さした。屋敷は一見質素(しっそ)なかまえだけれど、圧倒してくる大きさがあった。庭のむこうの主星(おもや)の燈(ひ)が明るい。
 −−加賀屋へ着いたのであった。

 その夜は松造のもてなしで、四方吉たちは三人で広い一間に寝て、あくる朝、主人の統兵衛(とうべい)にあいさつした。
「どうぞごゆるりと。ご滞在(たいざい)中の案内役は、松造に申しつけておますさかい、なんなりとごえんりょなく……。」
 統兵衛は50がらみのでっぶりした人で、さすが大旦那(おおだんな)だけに態度もあかぬけていた。
「この子は……近所の白石四方吉(しらいしよもきち)と申しますが、学問に熱心で、オランダや清国(しんこく:今の中国)のめずらしい産物なども拝見して、勉強したいと申しておりますが……。」
 桃吉の言葉に、統兵衛はあいそよくうなずいて、
「さあさあなんなりと。それも松造にいいつけてください。」
 四方吉にも、にこやかなえがおをむけるのだった。

−25−


 表に出てみると、昨夜のぽってきた東横堀(ひがしよこぼり)いううんが(うんが)は幅が3、40メートルもあるだろうか、南北にまっすぐよつづいていて、はしけだけでなく、かなり大きな船や屋形船(やかたぶね)が行き来していた。
 運河から店の広庭へは広い石段がついており、きのうの本船の荷がもうとどいたのか、蔵(くら)の前でおおぜいの人夫が、荷ほどきをしていた。ほどかれた荷物を手代(てだい:店員)が点検しては、蔵のとびら口で床几(しょうぎ)にかけている番頭(ばんとう)に報告する。番頭は何冊かの帳簿(ちょうぼ)と矢立(やた)て(持ち歩きできる筆記具)を持っていて、それぞれに記入している。記帳が終わった順に、その品物は倉庫に運びこまれていく。
「にぎやかなもんやなあ。」
「へえ。大阪の町じゆうで、毎日いそがしく、こんなにして仕事が進んでます。」
 四方吉が感心するのに、松造が答えた。
「こんどの荷物は、オランダの織物や小間物(こまもの)類でおますが−−そうだすなあ、奥へ行って陳列(ちんれつ)してある品物を見まひょ。」
 長い廊下(ろうか)を歩いて、はいった一室は、十畳ほどのぎれいなへやだった。客間のようで、床(とこ)の横に飾(かざ)りだながあって、いろんなものがならべられてあった。
「これはめがね。遠(とお)めがね・虫(むし)めがね、近目(ちかめ:近視)のめがねと、いろいろおます。昔は南蛮船(なんばんせん)で来たものですが、いまは長崎でも作られています。浜田弥兵衛(はまだやへい)という人が、南蛮でその技術(ぎじゅつ)を習うてきたとかで、精巧(せいこう)なもんだす。」
 松造に渡されて、四方吉が虫めがねを手にとって、ちょうどたなをはっていた小さなありにあてると、いも虫のように大きく見えた。
「あにさん、見てごらん。化け物ありや!」
 桃吉ものぞきこんで、ううっとうなり声をあげた。
「これは土圭(とけい:時計)です。−−このつぼは、ビードロ(ガラス)です。すきとおってまっしやろ。みなもとは異国(いこく)のものやが、いまは長崎でも作ってます。」

−26−


 四方吉も桃吉も、ただ息をのむばかりだった。

 それから四方吉たちは、油絵(あぶらえ)でえがいた世界図や、コソパスや、星図(せいず)や、そのほかいろんなめずらしいものを見せられた。四国の片いなかの志度に育ったふたりには、そのほとんど全部が、生まれてはじめて見るものばかりだった。
「あにさん、おらもこしらえてみたい。−−人間のこしらえたもんや、人間にこしらえれんはずがない。」
 例のきらきら輝く目で桃吉を見あげて、四方吉はうめいた。
 それから、松造はふたりをべつの離れたへやに案内した。土蔵(どぞう)の中みたいな、厚い壁と板戸に囲まれた、日のあたらない、暗い冷たいへやだった。なんだかお寺の奥にでも行ったような、へんなにおいが鼻を打った。
「なめてごらん。」

−27−


 一つのつぼのふたを取って、自分も指をつっこんで、白い粉(こな)を指先にまぶして、なめながら松造がいった。
「塩やろか?」
 からい味を予想しながら、四方吉はいわれたとおり指につけて、なめてみた。
「うっ、あにさん、あまいぞ!」
「砂糖(さとう)ですよ。オラソダの砂糖は、こんなに白い粉(こな)になってます。」
「もうひとロー−−。」
 四方吉がむじやきにもう一度指をつっこんだので、松造と桃吉は思わず笑いだした。
 そのへやには、いくつかのたんすがならんでいた。松造がその一つの引き出しをあけると、さきほどからの異臭がぶうんと、いっそう強くにおった。
「これは、清国(しんこく)やオランダの薬草(やくそう)です。日本にはできないので、長崎で南蛮船や唐船(からせん)から買うわけです。」
 ひとにぎりの千し草を引き出して、松造はふたりに見せた。ほかの引き出しには、またべつの薬草がはいっている。

「薬草は唐薬問屋(とうやくとんや)といって、うちらとはまたべつの問屋があつかうのですが、勉強のために、うちにも見本は集めてあるのです。」
 四方吉は、めずらしいのとおもしろいのとで、目を輝かせ、ほおを赤くして、いろんな引き出しをあけていたが、
「あにさん、この草はっ!」
 と、大声で桃吉に呼びかけた。
「どしたんや?」
「この草は……お多和(たわ)さん(多和神社)の裏山にある。たしかにある。おらあ見たぞ。めずらしい草やったから、おらあおぼえとるぞ!」
 興奮(こうふん)して、乱暴(らんぼう)なことばでいった。
「それは、オランダ渡りの薬草で、日本にはおまへんはずやが……。」
 松造が、不審(ふしん)そうに首をかしげた。

−28−


「いや、おらあ見た。なんちゆう名まえか、おらあ知らんけんど、ほかにも見た覚えのある草がある。南蛮船から買わんでも、この中には、たしかに日本で取れるのがあるんや!」
 四方吉ははげしく首をふり、その目は異様(いよう)に然えていた。さも自信ありげに、大声でいった。
 そのとぎ、あけたままの板戸の外の廊下(ろうか)に、人かげが立っているかと見えると、主人の統兵衛が、にこやかな表情ではいってきて、いった。
「四方吉さんはえらい。たしかにそうでっしやろ。日本にも、いろいろ調べたら、産物はあるはずや。」

「あっ、おじさん!」
「これは大旦那(おおだんな)さま!」
 三人が、おどろておじぎした。統兵衛それを手で制して、
「いやいや、あいさつはよろしい。−−四方吉さんとやら、あんたは注意力のするどい人らしい。あんたのいうとおり、日本も学問が進んだら、異国から買わんでもええものが、むしろ異国へ売り出せるものが、まだまだたくさんあるはずです。−−あんたは、よういうてくれた。その気持ちで、しっかり勉強しなさい。」

「はいっ!」
 なんだか恥ずかしくて、四方吉はほおをまっかにそめたが、それでも元気に答えた。
「松造どん、あすは船をしたくして、おふたりを道頓堀(どうとんぼり)にでも案内してあげなさい。芝居(しばい)や見せ物が、ぎょうさん出とる。おもしろかろうし、勉強にもなるしやろ。」
 統兵衛はそういいつげると、えがおのままで去っていった。
 午後は船のつかれを昼寝でいやして、その夜は早くから寝床についた。
 翌朝目ざめてみると、前日におとらぬ快晴だった。風もなく暖かくて、初冬というよりは、春のまっ盛りといいたい天気だった。
 朝から屋形船(やかたぶね)の準備(じゅんび)ができていて、桃吉と四方吉は、松造に案内されて乗りこんだ。お弁当(べんとう)のお重(じゅう)が、いくかさねもならぺられてあった。
 船頭(せんどう)の櫓(ろ)の音も軽く、船はすぺるように、東横堀を南にくだった。
 しばらく行くと、東横堀からTの字になって、べつの運河が西に流れていた。
 その流れを指さして、松造がいった。

−29−


「あれは長堀川(ながほりがわ)といいます。太閤(たいこう)さんのころに、いま通っているこの東横堀が最初にほられまして、それから天満堀川(てんまぼりがわ)とか、阿波堀川(あわぼりがわ)・西横堀川・道頓堀(どうとんぼり)などが、つぎからつぎにほられました。徳川(とくがわ)さまの御代(みよ)になってからも、京町掘(きょうまちぼり)、それにその、目の前の長堀川といったぐあいに、たくさんの堀がほられました。それがたがいに連絡しあって、木津川(きづがわ)・尻無川(しりなしがわ)・安治川(あじがわ)や、上流の大川(淀川)から、市中(しちゅう)のすみずみまで、網の目のように、どこにでも船がはいりこめるようになっているのだす。
−−水の都とか、浪華(なにわ)八百八橋(やばし)とかいわれるのは、そんなわけだす。」
「芝居のある道頓堀は?」
「この東横堀川のつきあたりだす。この川は南につきあたってから右に、西の方に直角にまがっていますが、そのまがってからの川が道頓掘で……そうれ、いうてるうちに、もう見えてきました。」 松造は、船の進路をまっすぐに、南を指さした。行く手で運河は右に析れていて、その両岸には、まばらなやなぎが植わっていた。
「あの川を、しばらくくだったところが、有名な芝居町になるのです。」
 なるほど、船が右にまがってしばらくすると、両岸には、しだいに家並みが見えはじめた。人の往来も盛んになって、やがていかにも大都会の盛り場らしい、にぎやかなムーギがただよいはじめた。
「このへんで、浜にあがりましょう。」
 松造が船頭に声をかけて、船は浜に着いた。浜とは川にそった土地のことで、江戸では河岸(かし)というが、浪華では浜(はま)という。
 浜の両岸には、芝居小屋が立ちならび、そのあいだには、有名ないろは四十八茶屋(じゃや)という、茶店がならんでいた。かれんな前髪だちの美少年が、あいそのよい呼び声で、客を呼んでいた。


 芝居小屋(しばいごや)には、かけ小屋式のごく簡素(かんそ)なものもあったが、中にはかわらぶきのどうどうたる新築で、表に極彩色(ごくさいしき)の看板絵(かんばんえ)や、芝居人形(しばいにんぎょう)をならべたのもあった。歌舞伎(かぶき)もあり、人形芝居もあり、子ども芝居もあった。
「あんなものを売っとる!」
 四方吉が、目を輝かせた。それは細工物(さいくもの)の店で、お城や御殿の模型(もけい)や、源 義経(みなもとのよしつね)のひよどり越えや、加藤清正(かとうきよまさ)のとら退治(たいじ)などの作りものがならんでいた。四方吉くらいの少年が、おおぜいその店をのぞいていた。竹細工(たけざいく)・麦わら細工(ざいく)・紙細工(かみざいく)から、陶器細工(とうきざいく)・唐木細工(とうぼくざいく)まであって、なかなか精巧(せいこう)なものだった。

−30−


 らくだや黒ざるなどの見せ物もあった。
 大道(だいどう)では、軽業(かるわざ)・力持ち・ものまね・こま回しなどの芸人が、それぞれに場所を陣取って、いろんな芸を見せては銭(ぜに)を集めていた。そのどの見せ物にも、おおぜいの人だかりがあった。
「おもしろいか、四方吉?」
 桃吉が、自分もけっこうおもしろがっているくせに、年長ぶって四方吉をからかった。
「さあ、ぼつぽつ芝居を見ましょう。日が暮れると、なくなりますさかい。」
 松造がせきたてて、三人は武田近江(おおみの)じょう芝居に入った。
「おさか(大阪)どとんぼり(道頓掘)竹田の芝居、ねい(値)が安うておもしろい。」
と、当時俗謡(ぞくよう)にまで歌われた有名な芝居だった。
 芝居といっても、ここは現代でいう『ショウ』で、いろんなものを見せていた。四方吉たちが、木戸銭(きどせん)をはらって入場すると、まず最初に、子どものおどりがあった。十歳にはならぬ少年たちが、じょうずな手ぶり足ぶりでおどった。

「東西東西(とざいとざい)、おつぎはお待ちかね、からくり人形とござあい。」
 現代でいう司会者(しかいしゃ)の、ひろうの声があって、つぎは『筆曲松梅童』と題した、からくり人形だった。
 まず管原道真公(すがわらのみちざねこう)になぞらえた人形が、大きな机にむかって、両手と口とに筆を持っていた。鳴り物がはいって、はやしたてると、その人形が右手の筆で『梅(うめ)』、左手で『桜(さくら)』、そして日にくわえた筆では『松(まつ)』という宇を、大きな字で同時に書いた。
 四方吉は、あっと大きな声をだしておどろいた。
 つぎは大ぎな人形が、弓矢を持って現われ、前方の的(まと)を射た。矢があたると、たちまち的のまわりにうめの花が咲きみだれる。
「どないになっとるのやろか、あのからくり?」
 いっているうちに、舞台(ぶたい)は水芸にかわって、太夫(たゆう)が一本のおうぎから、いろんな水を吹き出させた。舞台にかざったいけ花からも噴水(ふんすい)があがった。水は一本になったり数本になったり、弱まったり強まったりして、生きもののようにおどりつづけた。
「えらいもんや、からくりというもんは!」
 四方吉が、ため息をついた。
「この水芸を見て、四ッ橋の粉屋(こなや)の主人が、粉をひく水車を考案して、18人前の能率(のうりつ)をあげたと申しますから……、芝居芸もばかにならんもんです。」
 物知りの松造が、ふたりの顔を見て、そんなことをいった。

−31−


 からくり芝居でツョックを受けたのか、四方吉は帰りの屋形船でも、加賀屋へ帰ってからも、ものをいわなくなってしまった。
「四方吉、どうした。つかれたのか?」
 桃吉がいっても、
「いいや。」
 ぶすっとそういうきりで、平素(へいそ)陽気な四方吉が返事もろくにしなかった。
「あまりめずらしいものばかりで……、刺激(しげき)が強すぎたのでしょうか。」
 松造が心配そうに桃吉にささやいた。

−32−


 しかし……、四方吉にとっては、べつに刺激が強すぎたわけでも、いなか者が都会のにぎわいに圧倒されたわけでもなかった。四方吉は一所懸命に、あの『からくり』の方法を考えていたのだった。
(『からくり』というからには、なにか『しかけ』があるはずなんや。そのしかけとは、どんなぐあいになっているのか?)
 四方吉はあれやこれやと、その方法を考えつづけた。それにあの、水芸のしかけは?
 四方吉は、寝床にはいってからも、考えつづけた。
−−糸・なわ・ばね・鏡・ピードロ・くさり……そんないろいろな材料が『からくり』のたねとして四方吉の頭に浮かんだ。それらの材料を、四方吉は結びあわせてはほぐし、ほぐしてはまたべつの結びあわせを考えた。
 なぞは解(と)けそうになかったが、しかし四方吉は、それらの見せ物を、けっしてふしぎな魔法とは考えなかった。
(人間のしていることや。人間が考えて、人間にできたことや。いまはおらにはわからんが、いつかはきっとわかるやろうし、わかってみればきっと、なんのふしぎもないしかけにちがいないんや!)
 そう結論めいたことを考えたときに、四方吉は考えつかれて、とうとう眠りに落ちてしまった。
 夜中に四方吉は、夢を見た。
 あの芝居小屋で、四方吉自身が松梅童子になっているのだった。三本の筆を両手と口に、四方吉は持っていたが、とても両時に三つの文字を書く自信はなかった。
 −−どうしよう、四方吉は泣きたかった。鳴り物がはじまったので、西方吉はむちやくちやに立ちあがって、両手をふりまわした。すると、白いままの布の上に、どこからかもう一枚の布が飛んできて、ペたりとはりついた。見るとその布には、はじめから梅松桜の文字が書かれてあった。
 ふっと、四方吉は目ざめた。冷汗をかいていた。いま見た夢を思い出した。夢の情景を、かならずしも芝居で見た『からくり』と同じものとは考えなかったが、なにか『からくり』というものに、目がさめた気がした。すると安心して、こんどはすやすやと朝まで眠った。
 4、5日の滞在は、またたくまにすぎてしまって、すぐに志度に帰る日がきた。
「四方吉、おもしろかったか?」
 桃吉が聞いた。
「うん、おもしろかった。けんど、おらは、おもしろいというより、これから勉強せんならんことが、あんまりようけようけあるのを知って、つかれた。」
 おちついて、四方吉は答えた。
 −−帰りの航梅は、その冬最初の寒波(かんぱ)とかなりの強風がきて、往路(おうろ)のように順調ではなかった。播磨(はりま)の港と、小豆島(しょうどしま)の小さな港に風待ちして、志度へ帰り着いたのは、大阪を出てまる四日目めの夕方だった。
 すっかりおとなびて、四方吉は家のしきいをまたいだ。

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