ホームページに戻る|

お神酒(みき)天神

 浪華から帰ってしばらくのあいだ、四方吉にはみょうにだまりこくった目がつづいた。
「どうじやった、浪華は?」
「にぎやかだったでしょう。どんな町やった?」
 父や母がたずねても、「はい。」と、おとなしく答えて、手みじかに、見物先を報告するくらいで、平生の元気な、闊達(かったつ)な四方吉らしくもなく、すぐにだまって、考えこんでしまうのだった。
 しかし、父が仕事でお米蔵へ出かけ、母が所用で外出したとぎなど、おばばさんとふたりきりになってしまうと、きゆうに陽気になって、とめどもなく、しやべりだすことがあった。
「おばばはん、おもしろかったぞ、浪華のからくり人形は。」
「そうかい。どんなぐあいじやった?」
「うん、一つの人形が、こうして三本の筆を持ってのう−−。」
 幼いころのような乱暴なことばで、手や足までふりながら、四方吉は大きな声で話すのである。
「そうかい、そうかい。それから、どうした?」
 目の中に入れてもいたくないように、78歳のおばばは、四方吉をながめながら、何度くりかえして話しても、まるではしめて聞くくようなうれしそうな顔で、それから、それからと、うながすのである。
「ちょっと待った1」
 話の途中で、きゆうにそういって、四方吉がなにかを考えはじめると、おばばはまがった腰でやっこらさと立ちあがって、台所に行って、いなかだんごにはちみつをぬって、盆(ぼん)に盛ってきて四方吉にすすめるのが、いつもの例だった。
「さあ、おあがり。会べながら、もっと、からくりの話を聞かしておくれ。」
 −−そんな話が何回もくりかえされて、正月もあと十日ほどに追ったある昼すぎのことであった。だんごをかじっていた四方吉が、なにを思いついたのか突然、
「おばばはん、かけじ(掛け軸)を出しておくれ!」

−34−


 ドシンと、音がするくらいはげしく、盆を畳に投げるように置いて、いった。
「かけじ?なんにするんじゃ?」
「なんでもええ、三つ四つ出しておくれ。−−そうじゃ、なるべく古ぼけたやつがええ。」
 おばばさんはまた、どっこいしょと腰をのばして、立ちあがった。客間に行って、床の間(とこのま)の横の押入(おしいれ)れをごそごそやっていたが、三本ほどの軸(じゅく)を手にすると、もとの居間にもどってきた。
「これでええかい?」
「うん。」
 四方吉は、3本の軸をつぎつぎに、威勢(いせい)よく座敷(ざしき)にならべて流すと、例のきらきらした目でしばらく見いっていたが、
「おばばはん、このうちのどれか一本、おらがつぶしても、かまわんやろ?」
 乱暴(らんぼう)なことをいいだした。
「つぶすって、−−なんにするんじゃ?」
「うん。おらが絵をかきなおして、お正月用に一本、新しいのを作るんじゃ。」
「そうかい−−。」
 おばばはいって、いくらか不安げに、四方吉の顔を見た。
 兄がふたり生まれたが、生まれるとすぐに死んで、四方吉はおばばのひとりきりの孫(まご)だった。
 ただもう、かわいいばかりなのである。
 いっぼう、四方吉にしても、小心で厳格(げんかく)な父や、おとなしいばかりの母には、すこしは遠慮(えんりょ)があったが、おばばさんには、思うぞんぶんあまえていられる−−。
「なあ、かまわんじゃろ!」
「絵は……、なにをかくつもりじゃ?」
「うん。−−そうじゃ、天神さまにする。おばばはんが、びっくりぎょうてんするような、霊験(れおけん)あらたかな天神さまをかいたげる。」
「天神さまか。−−ほんだら、ええじゃろ。けんど、どれをつぶす?」
「うん。このねこの絵はどうじゃ。」
「ねこの絵?ああ、それはとらの絵じゃがが−−。」

−35−


「これがとらか?ねこじゃろう。」
 四方吉は、わざとおおげさに、おどろいたしぐさを見せていった。
「おばばはん、こんなあほうなとらは、ないわい。これは、しようのない絵じゃろ?」
「そうじやのう。それはわしがわかいときに、旅の絵師をとめてあげた礼に、置いていった絵じゃが……、まあ、ええじやろ。」
 おばばさんは、笑っていった。四方吉が、調子のいいことをいって、おばばに賛成させようとしている魂胆(こんたん)はわかっていたが、せっかく意気ごんでいるものを、古ぼけた掛け軸の一本ぐらい、惜しむことはないと、おばばさんは思ったのだ。

−36−


 四方吉は大喜びで、その掛け軸をかかえると、一室に飛びこんでいった。おばばにねだって、紙代と絵の具代の小銭(こぜに)をもらうと、いそいで町に走り出ていった。
「おらが、ええというまで、だれもこのへやにはいらしてはいかんぞ!」
 買い物から帰ると、四方吉はそのへやにとじこもって、会事のほかは出てこなかった。おばばさんにのりをたかせ、一心になにかを考え、絵をかき、また考えているようだった。
 母が所用から帰り、やがて夕方になって父がお米蔵から帰ってきたが、だれもそのへやには、はいらせなかった。掛け軸を一本つぶさせた話を聞いて、父はしぶい顔をしかけたが、そのままなんにもいいださなかった。
 こうして、一日半たった翌日の夕方、四方吉は顔じゅうを笑いでくずして、走り出てきた。
「できたぞ、おばばはん!」
「そうかい、それはよかった。−−どれどれ、見せてもらおう。」
「いかん、いかん!」
 四方吉が、ヘんに威厳(いげん)ぶった声で、大手を広げていった。
「ほんまに霊験(れいけん)あらたかな天神さまなんじゃ。あしたの朝、みんなそろうて、お手水(ちょうず)をつこうてから、お神酒(おみき)を供えておがむんじゃ。それまでは……、のぞくと罰(ばち)があたるぞ。」
 おばばさんも、さすがにふきだしそうになったが、さからわなかった。「そうかい、そうかい。」といって、四方吉のいうとおりに聞いてやった。
 四方吉は、おばばさんにへやの番をたのむと、町へ走り出ていった。渡辺桃吉の家である。
「あにさん、あすの朝起きたら、すぐにうちへ来てくれんか?」
「行ってもええが、なにごとじゃ?」
「天神さまをおがんでもらうんじゃ。おらがかいた天神さまの掛け軸やが、とても霊験あらたかな大神さまなんや。」
「四方吉、おまえ−−。」
 いいながら、桃吉はにやりと笑った。
「おまえ、やったな!」
「うんにゃ、ベつに……。」
 四方吉は、にこりともせずに答えた。
「けんど日本に一体きりの、生ぎた大神さまなんや。ほんまなんや!」

−37−


 あくる朝、まだ暗いうちに、おばばさんが起きて、「西方吉。」と、一言よぶと、いつもはねぼうの四方吉が、「うん。」と返事して、すぐに起ぎ出てきた。
 顔を洗(あら)っていると、おとなしい母親がやってきて、
「あまり、いたずらがすぎては、父上にしかられますよ。」
 小声でたしなめたが、
「いたずらやない!」
 四方吉はすましていた。
 父の茂左衛門(もざえもん)は、きげんがよくないようで、やけに大きな水音をたてて、ごしごし顔をあらっている。
 しかし四方吉がなみはずれてかしこい子であることは、みな知っているので、かなりりっばな天神さまが、描かれているかもしれないという期待は、みんながもっていた。
 父と母には、お神酒まで供えておがむのは、いかにも子どもじみていて、ばかばかしくはあったが、もうおばばさんが、お神酒(みき)どくりをあらい、酒をついでいるさいちゅうとあっては、ことさらにかどをたてて、やめさせるわけにもいかなかった。
 朝日の出るすこしまえに、桃吉が笑いながら、やってきた。
 四方吉はすましこんで、せっせとお祭りのしたくをしている。まず問題のへやから、例の掛け軸を取り出Lて、客間にはいると、ふすまをしめきった。床の間の軸をはずして、自作の軸とかけ替えているのだろう。
 それから、ふすまをあけはなって、三宝(ぽう)を二つ、床の間にすえた。いったん外に出て、おばばさんから二本のお神酒どくりを受け販ると、うやうやしくささげ持ち、一同をうながして、自分が先頭にたってふたたび客間にはいった。威儀を正して、床の間の正面にすわる。
 桃吉は、あいかわらずにやにやしている。おばばさんは、きまじめな顔をし、茂左衛門は、ふくれっつらだった。母親は恥ずかしそうに、いくらかおどおどしている。
 顔をあげて、一同が見ると、なるほど、なかなかじょうずな天神さまの絵であった。掛け軸はそのまま利用Lて、まん中の絵だけ、はりかえたようである。
 −−『天神さま』というのは、平安朝(へいあんちょう)のはじめごろまでは徳の高い神さますべてのことだったが、九州(きゅうしゅう)に流されて死んだ管原道真公(すがわらみちざねこう)が神として祭られるようになってからは、ほとんど、菅公(かんこう)のことだけをいうようにかわっている。

−38−


 四方吉のえがいたのも、その管原道真公の天神さまの座像(ざぞう)だった。黒っぽいお公卿(くげ)さんの装束(しょうぞく)で、まるまっちい顔に、くちびるのわきにあいきょうのあるひげをはやして、頭に小さな冠(かんむり)をかぶっている。神さまというよりは人のよいおじさんの感じで、絵はうまいけれど、ふつうの人物画にすぎず、『霊験』などはありそうにもなかった。
 四方吉は、一同に合い図(あいず)してから、神主さんのように、うやうやしくひざで進んで、三宝(ぽう)にお神酒を供える。それから、ひざですこししりぞいて正座して、ポンポンとかしわ手を打って、深く拝礼する。と、まず桃吉が、
「あっ!」
と、驚きの叶び声をあげた。茂左衛門が、ううむ!とうなって、がたりと前に肩を落とした。
 なんというふしぎだろう。四方吉の拝礼につれて、掛け軸の天神さまの白いお顔が、まるでいまお供えしたお神酒を飲んだかのように、うす赤くなり、それがだんだん色こくなり、とうとうまっかなお顔にかわってしまったではないか。
 おばばさんは、奇跡(きせき)を見た人の敬虔(けいけん)さで、かしわ手を打って、四方吉よりも低くひれふした。

 やがて、西方吉は顔をあげて、ふたたびポンボンと、すましてかしわ手を打っている。が、ほかの四人はぼかんとして、白痴(はくち)のように、ただ天神さまのまっかな顔に見いるばかりだった。
 −−しばらくして、
「四方吉、やったなっ、からくりを!」
 桃吉が、目がさめたようにさけんだ。
「からくりって、なんのからくりやろか?」四方吉は、いまは微笑して桃吉を見る。−−会心の微笑である。
「からくりや、人形からくりや!  四方吉、あれをやったんやな!」
「あれって、なんやろか?」
 あくまでも四方吉は、とぼけている。そのうちに桃吉も興奮(こうふん)がさめてぎたようで、
「というても……浪華の人形からくりにも、こんなのはなかったし、あったにしても、種あかしをしてもろうたわけやないし……。」
 ぶつぶつ、つぶやいていたが、
「四方吉、まいった。おれに、からくりのしかけを見せてくれ。」
 とうとう笑いだして、じょうだんに頭をさげてから、四方吉のそばに、にじりよってきた。それから立ちあがって、掛け軸に近よって、しげしげと、天神さまのお顔を見つめた。
「けんどおらあ、天神さまのお顔やこし、ちょっともさわっとらんぞ。天神さまがお神酒を飲んで、かってに酔(よ)っぱろうたんやぞ。」

−39−


「まあ、そういうな−−。」
 手で、天神さまの顔をなでようとすると、
「やめとけ、罰があたる!」
 四方吉は、きびしい声でいって、桃吉にもさわらせなかった。
 父にも母にも、四方吉がなんか細工(さいく)をしたのだろうということは推察(すいさつ)できたが、どこをどう細工してあるのか、どんなからくりなのか、具体的なことは、なにひとつわからなかった。茂左衛門が、しかるようにいっても、
「霊験あらたかな天神さまなんじや。はじめから、そういうたやろが。」
 四方吉は、ご霊験一点張りで、教えようとはしなかった。
 おばばさんだけが、ほかの者とはちがっていた。
「そうじや、ご霊験じゃ。もったいないことじや。四方青は、天神さまの生まれかわりかもしれんのじゃ。」
 ほんとにそう思っているのかどうか、とにかくそんなにいって、朝夕天神さまにお神酒を供えておがんだ。

−40−


 しかし、天神さまの白いお顔は、いくらおばばさんがおがんでも、四方吉がそばにいないかぎり、赤くはならなかった。それがまた、もったいないことじゃと、おばばさんはいって、せっせとお神酒を供えつづけた。四方吉のいいつけどおり、客間の番をして、四方吉のいないときには、だれも客間にはいらせなかった。
 四方吉、−−すなわち少年の目の平賀源内(ひらがげんない)が作った、この天神さまの顔が赤くなる掛け軸は、伝説やなにかではなく、事実なのだ。げんにその天神像は、今も志度町の平賀家にあるのだが、四方吉がしたとおりの『おがみ方』をすると、だれも掛け軸には手もふれないのに、天神さまのお顔はしだいにうす赤く、やがてまっかになってしまう。それは今でもそのとおりである。

 さて、うわさはたちまち広まって、歳末(さいまつ)の志度の町は大さわぎになった。白石家にとって、こんなにいそがしい師走(しわす:十二月)はなかった。
「お神酒天神をおがませてください。」
「お神酒天神にまいっておけば、学問がよくでぎるといいます。この子がお正月から寺子屋(てらこや)にあがるので、どうか四方吉さんにおがんでもろうてください。」
 おばばさんも、おたあさん(母)も、てんてこまいである。
「見せ物やないので……。」
「ほんの四方吉のいたずらですから……。」
 いいわけをしても、なんのたしにもならなかった。毎朝毎目、お供えの小さな酒だるやもち菓子
なんかを持って、おがませてください、見せてくださいと、訪問客(ほうもんきゃく)がひきもきらない。とてもお正月のしたくどころではなかった。
 四方吉は、自分のきげんの悪い日には、
「きょうは天神さまは二日酔(ふつかよ)いやから、お神酒は召しあがらんというています。」
 などといって、居間にとじこもって本ばかり読んでいるが、きげんのいい日には客間に出てきて、お神酒を供えて拝礼した。するとまちがいなく、天神さまはしだいに顔色を赤らめ、ついにはまっかになられるのだった。
 いちど赤くなると、もうその日はつぎの客があっても、四方吉は拝礼をゆるさない。
「いくら天神さまでも、いちど酔っばらえば、その日は酔いがさめんから……。」
 そして夕方、例によって人ばらいをして、ひとりで客間にはいり、なにかごそごそやっている。そのあとで客間にはいってみると、天神さまのお顔はもとの白いお顔にもどっている。

−41−


 その年−−元文4年がきょう一日でおわるという大みそかの午後、ひとりの身なりのいい中年の武士が、多和神社の松岡神官といっしょに、四方吉の家をおとずれた。
「これはこれは、真田(さなだ)さま。−−宮司(ぐうじ)さまもごいっしょに、なにごとでございますか−−。」
 年末年始(ねんまつねんし)の休みで家にいた茂左衛門が、おどろいて玄関に出迎えた。
「いやのう、茂左どの。真田さまが、お神酒天神をおがませてもらいたいとおっしやってのう。ついでにわしも、おがませてもらおうと思うて……。」
 にこやかに、松岡春房がいった。
「ごじょうだんをおおせられますな、松岡さま!」
 茂左衛門が、あわててさえぎった。
「あんなしようもないもの、四方吉のいたずらでございます。浪華でなにやら、からくり人形を見てまいりましたようで、そのまねをしているのにすぎませぬ。」
「いやいや−−。」
 武士は手をふって、
「わしはなき大殿、恵公(けいこう)さま(頼豊)から、四方吉が行くすえ心にとめておけと命令されているのじゃ。それが、かような霊検あらたかな天神さまを作ったとあっては、見すごしていては、なき大殿への不忠になるというものじゃ。」
 微笑して、じょうだんめかしていったが、目はするどく、茂左衛門をにらんでいた。
 武士は真田彦兵衛(さなだひこべえ)だった。ずっと以前、四方吉が幼かった日、おしのびの領主頼豊(りょうしゅよりとよ)とお茶飲み問答をしたときに、おそばにいて、頼豊から「この小僧、見知りおけ。」といわれた、あの真田彦兵衛だったのである。

 大殿のご遺志(いし)と聞いて、茂左衛門は片ひざを析り、地面に片手をついて拝礼したが、
「しかし真田さま、−−おことばをかえすようにて申しわけございませぬが、四方吉は一日に一度しか、からくりを見せませぬ。いちど酔っばらえば、さめるのに一日かかるとか、へりくつを申しまして……。」
「茂左どの。」
 松岡春房が、ほおから笑いをひっこめて、低いが重みのある声で呼んだ。

−42−


「はっ。」
「それが、どうにも見せてもらわねばならぬ。−−こちらへ、こちらへこられい。」
 春房は手招くと、真田彦兵衛に会釈(えしゃく)しておいてから、茂左衛門を広い玄関の土間の片すみに呼んだ。
「?−−」
 ふとなにかしら不安を感じながら、茂左衛門は春房のそばによった。
「じつは……、茂左どの。」
 春房が、いっそう声を低くした。
「あんたは讃岐(さぬき)の国が瀬戸内海の入り口にあって、上方(かみがた:京・大阪)と九州などとの交通の要路にあたることは、ようごぞんじのはずじや。」
「はあ、それはもちろん−−。」
 なぜそんなことを春房がいいだしたのか、茂左衛門はしだいに高まる不安と戦いながら、うなずいた。
「されば、信長公(のぶながこう)、秀吉公(ひでよしこう)の時代以未、異国との交通が開けて、吉利支丹(キリシタン:キリスト教)の宣教師(せんきょうし)たちも、九州と都(みやこ)との往来(おうらい)のときには、讃岐を通った。いや、小豆島(しょうどしま)や塩飽(しあく)の鳥々には、かの異国の宣教師たちが、しばしば船泊(ふなどま)りし、なかには上陸して滞在した著もおおぜいあった。」
「…………」
「そのせいで、これらの島々には、吉利支丹信徒(しんと)が、昔はおおぜいいた。ことに、秀吉公の時代に、信徒であった小西行長(こにしゆきなが)どのが小豆島の領主になられたときには、小豆島での吉利支丹信徒は、何千人にもなった。」
「はい−−。」
「秀吉公の天正(てんしょう)のご禁制(きんせい)以来も、こうして讃岐には、多くのかくれ吉利支丹がいたのじや。そのうえ、覚永(かんえい)14年(1637年)の島原(しまばら)の乱には、天草(あまくさ)や島原の農民が4万人も加わったので、乱ののち、その地方は住民の戦死や逃亡が多く、たいへん疲弊(ひへい)した。そこでお上(かみ)では、天領(てんりょう:幕府の直属地)である小豆島から、多くの農民や漁民を天草・鳥原に移住させて、その地方の復興につとめさせた。−−これらのことは、茂左どの、ようご承知のことじやのう?」
「はい、でもそれが……。」
「まあ聞かれい。−−そんな歴史と、高松・志度は、小豆島とはほんのひとまたぎの対岸である関係とで、讃岐の吉利支丹改(あらた)めは、とくにぎびしい。現に藩祖英公(えいこう)さま(頼重:よりしげ)のころにも、何十人というかくれ吉利支丹が捕えられておる。」

−43−


「あっ!」
 かなり血のめぐりのゆっくりした茂左衛門も、気がついて身をふるわせた。
「ま、まさか、よ、よもきちが、吉利支丹などと……?」
「いや、そなたから、そう気がついてくれると話しやすい。−−もとよりわれらは、そんなばかなことは考えもせん。が、お神酒天神は吉利支丹伴天連(バテレン)の魔法じや、などと、つまらぬことを、いいふらす者があるそうでのう。」
 春房はやっと徴笑したが、茂左衛門は身ぶるいするばかりである。

「き、吉利支丹などと、めっそうもない、松岡さま!」
 茂左衛門は、ペったりしりもちをついてしまった。春房は笑って、
「まあ立たれい、茂左どの。だから、わしらは思うておらぬと、申したではないか。」
 手を取って、茂左衛門をひぎおこした。
「真田さまは、ときどざわたしの家に見えて、四方吉はどうしておる、よく勉強しておるか、などと、親切に聞いてくたさる。なき大殿の御意(ぎょい)を体して、ゆくゆくは四方吉に、ひとかどの勉強をさせて、りっばに取り立ててやろうとの、ありがたいおこころざしじゃ。−−それだけに、あらぬうわさなどお耳にはいっては、真田さまはひとかたならぬご心痛じや。」
「あ、ありがとうございます。」
 茂左衛門は、ふるえながらふたりに、かわるがわるおじぎした。吉利支丹などとうたがわれては、禁制のきびしいこの時代には、悪くすると、一家全部が獄門(ごくもん)はりつけといった極刑(きょくけい)にあわぬともかぎらない。茂左衛門がふるえあがったのは、当然であった。
「じやから四方吉にも、きょうはどうあっても、もう一度おがんでもろうたうえで、からくりも、とっくり見せてもらわねばならぬ。おわかりじやろう茂左どの―−。」
「はい、それはもう……。」
 茂左衛門はふたりに一礼すると、奥の間に飛んではいつた。
 話がそこまで進むと、松岡春房はもうゆったりと微笑していたが、真田彦兵衛は太った赤ら顔を、まだかなり気むずかしげにゆがめていた。
 むりもなかった。春房は日常、四方吉に接していて、その人となりをよく知っているのだが、彦兵衛には、なき大殿から命ぜられたという責任感が先にたって、ばかげた評判でも気にかかるわけである。
 そのうえ、四方吉のことは、さきほど出府(しゅっぷ)したおりに、すでに当主である五代め頼恭(よりたか)に話してあった。

−44−


「ほほう、恵公(けいこう)さまに学問と殖産興利(しょくさんこうり)を説いたと申すか。おもしろい小僧じや。−−なお心にかけておけよ。」
 頼恭は、そういってひどく興味を示したのだった。四方吉に万一の失態があっては、彦兵衛は面目なくて切腹しておわびしなければならない−−。
 しばらく待っていると、四方吉が父につれられて出てきた。どう説きふせられたのか、四方吉はにこにこきげんがいい。
「これはこれは真田さま。お師匠(ししょう)さまも……ようおこしくださいました。」
 玄関(げんかん)に両手をついて、行儀(ぎょうぎ)正しくあいさつした。
「真田さまがのう、天神さまにお参りしたいと中されてのう−−。」
「はい、朝お神酒を召しあがられて、酔っぱらっていらっしやったので、いまお水をさしあげて、酔いをさましていただいたところです。−−どうぞ、こっちへおいでください。」
 おそれげもなくしょうだんをいって、四方吉は小腰をかがめて、ふたりを客間に案内した。あとから茂左衛門がおそるおそるついてくる。
 例によって拝礼し、かしわ手を打って、四方吉が正面の畳に平伏しておがむと、天神さまはいつものとおり、しだいに顔色をうす赤くされ、やがてまっかになられた。
「ははは……四方吉、わかったぞ。ひもがついておるな!」
 じいっと、平伏した四方吉の手元を注視していた春房が、さも愉快そうに、大声で笑った。

「わしは、いっこうにわからぬが−−。」
 あいかわらずむっつりと、彦兵衛がいった。
「そうでしたか。いや、いま、からくりのひもが見えましたよ。」
 彦兵衛にむかってにこやかに答えると、春房は、
「四方吉、天神さまに、ここへご遷座(せんざ)していただけ。」
 おもしろそうに、彦兵衛とのあいだの畳を指さした。
「はい。」
 四方吉は、たいへんなごきげんですぐ立ちあがると、床の間に行って掛け軸をはすして、広げたままを再手で持ってきて、ふたりのあいだの畳に置いた。
「ここにこう、ひもがついてましてなあ。」

−45−


 春房は、まるで自分が作ったものであるかのように、楽しそうにいうと、掛け軸の上端の軸木の表側から出ている、一本の細いひもを示した。床の間にも畳がしかれているが、そのひもは軸の上端から出て、床の間の奥のはしの畳のへりまで伸びて、畳の下にかくれていた。だから春房がひっばると、畳の下からずるずると、かなり長いのが抜け出してきた。
「つまりこのひもが、天神さまのお顔から出て、四方吉の手でひっばられるわけですよ。」
「ほほう、どんなぐあいに?」
「この天神さまのお顔は、たしか二重じかけになっているはずです。そのからくりを、このひもが動かすわけです。−−掛げ軸が床にかかっている場合、このひもはこう、軸木の上をひとまわりして掛け軸の裏側にまわり、それからまっすぐ壁にそってたれているわけです。ここの床の間は、ごらんのように畳敷きなので、ひもは床の間の奥で畳の下にかくれます。それからかくれたままで、座敷の畳の下を通って、それ、そこの、いま四方吉がすわっているすぐ前の、畳の合わせめから首を出していたわけです。そいつを四方吉が、おがむまねをしてひっばるんです。」
「ほう、で、ひっばるとどうなる?」
「つぎは掛け軸のほうの、天神さまのお顔のからくりを調べる番ですね。」
 春房は掛軸を手に取って、天神さまの顔の部分を、彦兵衛に見せた。
「ごらんなさい。この、子どものにぎりこぶしほどの大ぎさの顔の部分だけが、ほかの部分と紙がちがうでしょう。切り抜いて、目や口やひげだけを墨で書いた、すきぎとおった生(き)ずきの紙をはってあるでしょう。−−これがからくりで、きっと下に、もう一枚紙があるはずです。つまり二重になっているはずです。」
 いわれて彦兵衛が四方吉を見ると、にこにこ笑ってうなずいている。
「四方吉、あとでまたはればよい。ここを切りはなして、中をお見せしなさい。」
 春房にいわれて、「はい。」と四方吉は別室に行ったが、すぐにするどい切り出しを持って現われた。
 四方吉は掛け軸を受け坂ると、その生(き)ずきの紙の部分を、切り出しで台紙からはがしはじめた。3、40センチほどはがして、ふたりに広げて見せたが、目・鼻・口・口ひげなどをかいたすぎとおった紙の内側は、全体が袋状になっていて、袋の中には幅7、8センチ、長さ30センチほどの、ベつの細長い紙がはいっていた。
 四方吉は、その細長い紙をひっばり出して、ふたりに見せた。腰の強い、かなり厚手のじょうぶな紙で、その紙は上のほうはまっ白で、しだいにぼかし模様に絵の具でうす赤くぬられ、それがしだいにこくなって、下のほうはまっかにぬられていた。その紙の上端の中ほどに、問題のひもが結びつけられていて、ひもは掛け軸の上端から袋の外に抜け出て、軸木をひとまわりして裏側にたれるしかけになっていた。

−46−


−47−


「ううむ、なるほど。」
 彦兵衛がうなった。
「おわかりになったでしょう。」
 春房が、顔いっばいに笑った。
「それにしても、りこうなやつですよ。はじめはこの厚い紙は下にさがっていて、白い部分が顔のところにぎています。だから白い顔です。それを、離れた場所からひもをひっばると、その紙はしだいに上に引きあげられて、うす赤い部分からしだいにこい部分へと、順々に顔のところの色がかわります。目鼻だけかいた表の紙はすぎとおった紙ですから、まるで顔そのものが、だんだん赤らんでいくように見えるわけです。」
「いや、しかし……、天神さまとは考えたものじや。」
 やっと、彦兵衛が笑った。
「お神酒を供えるのも、平伏しておがむまねをするのも、天神さまならだれも疑うまい。−−そこのところのくふうが……、これはおとなでもいっばいくうわけじゃ。」
 それから父親をふりかえって、
「茂左衛門、かしこいせがれを持つのはうれしかろうが、また心配なものでもあるのう。」
 表情をゆるめて、しんみりといった。
「いやもう、がきのころから出すぎ者で、心配ばかりかけよります。」
 ほっとしたのか、茂左衛門も思ったとおりをいった。
「いやしかし、わしもこれで安心した。あらぬうわさを立てたやつは、ひっ捕(と)らえてきびしく詮儀(せんぎ)してやるぞ。」
 目をかけていた四方吉の、あらぬ疑いが晴れたばかりでなく、そのりこうさがいっそう証明されたので、彦兵衛は大いに満足そうであった。
 ころあいを見はからって、母と祖母が、酒とさかなをささげて、あいさつに現われた。お正月をあすにひかえた気ぜわしい午後であったが、そんなことはいっていられない。真田彦兵衛ほどの高級武士は、身分の低い現在の白石家にとっては、めったにない貴賓(きひん)であり、また四方吉の将来にとって、このうえもなくたいせつな人でもあったからだ。
 彦兵衛もすっかり気分をよくしていることとて、それからにぎやかな酒もりがはじまった。
 冬の日のかたむくのは早い。やがて庭のうめの木のかげが、座敷の奥深くまでさしこむ刻限になった。彦兵衛はふと気づいたふうで、
「いや、これは長居(ながい)いたした。もう帰らねばならぬが……、ときに四方吉、そちは何歳になる?」
 末座で手つだっている四方吉に聞いた。

−48−


「はい、明けますと、13歳に相なります。」「ほほう、13歳か。早いものじやのう。しかし、13歳にもなれば、いつまでも幼名でもいられまい。−−のう宮司どの、なんぞよい名をつけてやってくださらぬか。」
 春房はしばらく考えていたが、
「ではこうしましょう。わたしが考えますから、真田さまが名づけ親になってやってください。−−嘉次郎(かじろう)はいかがですか?」
「白石嘉次郎か、よかろう。わしが名づけ親じや。めでたい元旦(がんたん)からそのように名乗ることにするがよい。」
「はい。」
 四方吉と茂左衛門は、ならんで平伏して礼をいった。

−49−

もどる進む
ホームページに戻る|