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第2部 科学への出発

本草学(ほんそうがく)事始め

 明けて元文(げんぶん)5年(1740年)。四方吉あらため白石嘉次郎(しらいし かじろう)、13歳。
 この年は平賀源内(ひらが げんない)の嘉次郎にとって、たいへん意義深い年になった。
 年末のお神酒天神のことがあって以来、真田彦兵衛はたびたび志度に来て、お米蔵に茂左衛門をたずねたり、多和神社に松岡春房をたずねたり、ときには三人より合って、なにごとか相談をかさねたりしていた。
 そのうちに冬が去って、また春がめぐってきたある午後、嘉次郎は使いの者に、多和神社へ呼ばれた。
 暖い日だった。家を出て野道を行くと、道の両側には、いつもの春と同じように、たんぽぽの黄色い花を主役に、いろんな草花がみだれ咲いていた。
 多和神社は、小高い丘の上にある。手入れのいきとどいた長い参道をのぼりながら目をあげると、西南にあたる四国連山のいただきは、もう雪が消えてしまって、青くかすんでいる。北を見ると、目の下の志度湾が、波も静かに白帆を浮かべている。
 玄関に立って案内をこうと、すぐに家人が出てきて、客間に通された。
「ああ、これは、真田さま。父上も−−。なんのご用でございますか。」
 敷居ぎわに正座して、一礼して嘉次郎はいった。松岡春房ばかりでなく、真田彦兵衛を上席に、父の茂左衛門も同席していたのだ。
「おう四方吉−−じやなかった嘉次郎、ずっとこちらへはいってこい。」
 例のおだやかな微笑で、春一房がいった。
「では、ごめんください。」
 嘉次郎は遠慮せずに、父の下座(しもざ)まで進んだ。
「じつはなあ、嘉次郎。真田さまがおとりなしくださって、殿さまの頼恭(よりたか)公が、おまえをだれかよい先生につけて、自分の望む学問を十分にさせるようにとのありがたいご内意をたまわったのじや。が−−嘉次郎はいったい、どんな学問をしたい?」

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「はい。わたくしは、本草(ほんぞう)の学をいたしとうございます。」
 嘉次郎は3人に一礼すると、顔をあげて、よどまずに答えた。
「うん。」
 春房は、彦兵衛を見てうなずきあってから、
「儒学(じゅがく)や国学(こくがく)はどうしゃ、それならわしが、これまでどおりに教えてやれるが−−。」
 本気なのか、それともためしているのか、ばかに、にやにやと、笑っていった。
「はい……。」
 嘉次郎はすこし考えていたが、
「儒学やなにかは、身分の高いお侍(さむらい)が、ご自分の政治をなさるための教養として学ばれるがよいとぞんします。わたくしはそれよりも、国と一般の民(たみ)とに直接に役だつよう、本草の学をいたしたいのです。」
「儒学や国学では、民の腹がふくれぬと申すのか。」
「いや、−−はい。」
 嘉次郎は、たしろがなかった。
「わたくしは昨年大阪に参りまして、加賀屋さんでいろんなめずらしいものを見せてもらいましたが、その中に、蛮船(ばんせん)で舶来(はくらい)した薬草などがありました。それらはもちろん、日本の国ではできないために異国(いこく)から買っているわけですが、わたくしの見たところでは、その中にはたしかに讃岐(さぬき)でも取れるものがまじっていたのです。讃岐で取れるものがあるとしますと、広い日本の国のどこかでは、かならずいろんなものが、取れるはずだと思うのです。」
「うん−−。」
「それが取れないのは、日本に本草の学、実地の学問が進んでいないからだと思うのです。それらを買い入れるために、日本からは毎年おびただしい金や銀が異国に流れ出て、お上(かみ)でもご心痛(しんつう)とか、うけたまわっています。」
「なるほど−−。」春房はうなずいた。

「やはり、話していたとおりでしょう。」
 春房が、いつもかわらぬ春風のような微笑で、真田彦兵衛を見て、いった。
「うむ。殿にも殖産(しょくさん)ことを、いつも案じておられる。嘉次郎がこころざし、殿にもさぞ喜ばれよう。−−のう白石どの、ご異存はあるまい?」

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「はい、わたくしはもう……。数ならぬ嘉次郎めを案してくださいますおこころざし、お礼のことばもございません。」
 茂左衛門は、平伏して答えた。
「それでは、のう嘉次郎−−。」
 春房が、彦兵衛とうなずきあってから、いった。
「真田さまのお骨折りで、藩医(はんい)の三好賛道(みよしさんどう)どののところへ、薬坊主(くすりぼうず)として弟子(でし)入りできることになっておる。三好どのは、藩内では名だたる本草学者でもあるし、おまえのこころざしにかなうじやろう。−−どうじや、すぐに高松へ行くか?」
「まいります。」
 にっこりと、嘉次郎が答えた。
「きょうにもお連れくださいませ。一日も早く、勉強をはじめとうございます。」「まあ、したくもあろうし……きょうとはまいるまい。真田さまにも、こよいはうちでおとまりねがって、あす早朝にたつことにするか。−−のう、真田ざま、いかがでしょう?」
「うむ、ではごやっかいになろう。」
 嘉次郎が医学か本草学か、なにかそういった種類の学間を好んでいるらしいことは、ふたりのあいだでは、早くから推測(すいそく)がついていたのにちがいない。さきほどからの問答は、いわば嘉次郎への、一種のテストだったのだろう。弟子入りさせる先も、早手回しに話しあいができているもようだった。
 それはどちらにしても、嘉次郎はとにかくうれしかった。三好賛道という、藩内では一流の医者・本草学者について、いよいよ本格的に専門のことを勉強できるのである。
 茂左衛門は居残って、松岡家ではそれから、真田彦兵衛を主賓(しゅひん)とする酒もりがはじまったが、嘉次郎は一足さきに家に帰った。
 三好賛道に弟子入りするために、あす高松のお城下へ行くことになったと報告すると、
「そうかい。それはおめでたい。」
 母はそうはいったものの、さびしそうな表情を見せた。しかし、おばばさんは、
「そうか、四方吉−−。とうとうお城下に出て勉強するのか。」
 まだ幼名で呼んで、さもうれしそうに、にこにこした。
「本草学でも何学でも、勉強する以上は日本一の大学者になれよ、のう。−−いまは泰平(たいへい)の御代(みよ)じゃから、兵法では殿さまにはなれぬが、学問の世界で、学者の中の殿さまになるぶんには、かまうまい。学者の中の殿さまになって、先祖の名まえをあげてくれ、のう。」

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 はりきって嘉次郎を激励(げきれい)した。
 嘉次郎はすぐに、宇治屋へ報告に行った。先代の伝左衛門(でんざえもん)がこのごろ病気がちなので、正月の未に隠居(いんきょ)して、桃吉がその跡を継いでいた。六代め渡辺伝左衛門と名乗って、18歳のわかさながら、すでにどうどうとした当主である。
「そうか、それはなによりじや!」
 桃吉の伝左衛門は、目を輝かせていった。
「加賀屋も唐物問屋(からものどんや)やし、将来おまえの学問に、なにかと役にたつじゃろう。わしも応援するぞ。どうか大学者になってくれよ!」
「はい、きっとなってみせます!」

 翌朝早く、嘉次郎は真田彦兵衛に連れられて、家を出た。
 村境(むらざかい)のあたりまで、桃吉の伝左衛門と、おさな友だち何人かが見送ってくれた。
 父や母やおばばさんには門前までしか送らせなかった。母とおばばさんは、嘉次郎の姿が見えなくなるまで、手を振りつづけていた。
 村境でわかれるとき、伝左衛門は嘉次郎の手をにぎり、北にそびえる八栗山(やくりざん:五剣山)を見あげて、いった。
「あの山の上で、いつかおまえが話した夢物語が、とうとう夢でなくなるようじゃのう。しっかり勉強してくれよ。高松で勉強して、それから長崎へも浪華へも、江戸へも行くんやぞ。行って日本一の学者になるんやぞ!」

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 「うん−−。」
 うなずいて、嘉次郎はちょっと涙ぐんだ。このまま行ききりになるのではなく、近い高松のことだから、休みの日などいつでも帰ってこられるのだが、それにしてもわかれとは、さびしいものだ。
 しかし、嘉次郎のさびしさは、長くはつづかなかった。別離(べつり)のさびしさよりもずっと大きな、前途への期待があった。神童とかなんとかいわれていても、これまでは体系のない、いなか学問で、きれぎれの知識があるだけだった。しかしこんどは、ほんとうに学問というに価(あたい)する、組織だった学問ができるはずだった。
 手を振って一同とわかれてから、嘉次郎の足の軽さはおとなの彦兵衛に負けなかった。道は平らかな野道だし、木々の若葉も野の花々も、ちょうちょうや小鳥までが、嘉次郎の前途を祝福してくれているようであった。
 10キロあまりの道は、ほんのひと歩きで、お昼前にはお城下の入り口に着いていた。
 詰田川を渡ると、もう高松の町並みで、右手にお城の天守閣(てんしゅかく)が見えた。高松の玉藻城(たまもじょう)というのはめずらしい城で、瀬戸内海の海べりに、海につき出て建っている。堀の水はすべて海水で、まるで海上に浮かんだ龍宮(りゅうぐう)のようなお城である。
 城から北はいちめんの瀬戸の海で、城の南側の町並みはにぎやかな商家である。その商店街を通り過ぎて、お城の西側まで出ると、一帯に武家屋敷(ぶけやしき)がつづいていた。
 お城のすぐ西側の、海岸に近いあたりを一番町といい、それから南へ、二番町・三番町と、九番町までの東西の町並みがあった。一番町・二番町など、番号のわかい、お城に近い町ほど、身分の高い武士の屋敷町で、南へさがるほど、下級藩士の住居になる。
 三好賛道(みよし さんどう)は、身分はさして高くないとみえて、八番町の東のはずれに近く住まっていた。すぐ隣は、もう商人町である。それでも門がまえの、かなり広い屋敷で、横手と裏手に広い畑地が見えるのは、薬草などを栽培するためであろう。
 玄関をはいると、ぷうんとこげくさい、異様なにおいが鼻をうった。去年加賀屋の一室でかいだ、あの薬草のにおいと同じにおいてある。それがもっと濃密(のうみつ)で、あまり感じのよくないにおいであった。
「たのむ−−。」
 彦兵衛が大声をあげると、待っていたのか、すぐ賛道が出てきた。
「これはこれは……、真田さま。」
 嘉次郎は意外に思った。なんとなく白髪の名医師を想像していたのだが、賛道はまだわかくて、34〜5歳のようだった。血色のいい顔に、いっぱいの微笑を浮かべていた。
「白石嘉次郎を連れてまいった。この少年じゃ。よろしくたのむぞ。」
 嘉次郎の肩をたたいて、彦兵衛はいった。

−54−


 嘉次郎に、翌日からまったく新しい生活がはじまった。

 朝早く起きて、ヘやの内外のそうじをし、庭に出て、栽培(さいばい)してある薬草の手入れをする。
 薬坊主は、嘉次郎のほかに、もうひとりいた。又平(またへい)といって、高松の商家の三男坊である。嘉次郎より一つ年上の14歳だが、小柄な少年であった。色が黒くて、額がせまく、鼻が低い。大柄で色白で鼻の高い嘉次郎にくらべると、ひどく貧相(ひんそう)で、いじの悪そうな感しである。けれども年上だし、2年ほど前から住みこんでいるので、先輩でもある。嘉次郎は、又平の指導を受けるようにと、師の賛道からいいつかった。
 患者(かんじゃ)が来はじめると、受け付けや案内や、その他の雑用は嘉次郎の仕事で、又平は賛道の助手をして、いいつかった薬を出してきたり、丸薬(がんやく)を袋に入れたりする。
「嘉次郎、甘草(かんぞう)と大黄(だいおう)を、20匁(もんめ:一匁は3.75グラム)ずつ取ってきてくれ。」
 急にそんなことを、いいつけたりする。
「どこにありますか?」
「きまっとるやないか。薬だんすやないか。」
「どんな薬ですか?」
「おまえ、甘草も知らんのか。」
 一両日前に来たばかりで、知っているはずがない。又平はしかし、そんな難題をふっかけては大いに優越感を味わっているらしい。ひととおり、いしめておいてから、白い目でじろりと嘉次郎をにらんでおいて、
「ちぇっ!」
小声で舌うちして、自分で薬べやへ取りに行く。
 嘉次郎はさからわない。胸の中では、こんちくしょう、と腹はたつが、おこってみたところでしかたがない。とにかく、理屈はあとまわしにして、早くいろんな物の名まえを覚えてしまうのが勝ちだと、心にきめている。
 だから、又平が薬を取りに立つと、すぐあとにつづいて薬べやにはいる。又平がなにかの薬草を取り出すと、
「それは、なんという薬草ですか?」
 すかさず聞く。又平は根っからの意地悪ではなく、もともと単純なところがあるとみえて、
「これか。こんなもん、おまえ知らんのか。」
「知りません。教えてください。」

−55−


「これが、有名な甘草や。こちらは茯苓(ぶくりょう)や。甘草は清国(しんこく)の特産品で、甘草という草の根や茎(くき)や。解毒(げどく)や痛(いた)み止めに、ようきく薬や。−−茯苓(ぶくりょう)は日本で取れる薬で、まつの木を切ったあとの根に、土の中ではえるきのこやそうや。胃や心(しん)の臓(ぞう)の悪いときや、筋肉がびくぴくひっつったりしたときに、使うんや。よう覚えとけ。」
「はい。−−又平さんはなんでもよう知っとりますねえ。」
 おだてると得意になって、
「うん、わからんことはなんでも聞け。」
 低い鼻をうごめかしていばる。しかし物覚えが悪くて、賛道にしかられながら2年がかりでやっと覚えたことは、おくびにも出さない。
 嘉次郎は、いちど聞いたことは、けっしてわすれない。又平の話ではまちがいがあってはこまるので、だいじなところは、あとから賛道に聞く。
「こら嘉次郎、あのげたはどうした!」
 薬に夢中になって、つい患者のはきものの始末がるすになっていたりすると、またいじわるく又平がにらむ。
 午後のひとときが過ぎて、賛道が又平を連れて往診(おうしん)から帰ってくると、調剤(ちょうざい)である。賛道がいろんな薬物を調合して、それを嘉次郎と又平が、粉にしたり、せんじたりする。
 当時の薬といっても、基本的には現在とあまりかわりはなく、散薬(さんやく:粉薬)と、せん薬(水で煮た薬)と丸薬(がんやく)である。せん葉は現在の水薬にあたるし、丸薬は錠剤(じょうざい)にあたる。ほかに外科用のぬり薬や、はり薬があって、注射(ちゅうしゃ)がないだけのちがいといえる。
 嘉次郎と又平は賛道のいいつけにしたがって、薬草やそのほかの薬物を、きざんだり粉にしたりする。丸薬を作るときには、はちみつやそのほかのものを加えて、ねってまるい玉を作る。
 賛道は、理屈はまだなにも教えてくれない。
「十分にねれよ。」
「粉は気をつけて、全部が同じような細かい粉になるように−−ゆだんするなよ。」
 一般的な注意をしてくれるだけである。
 賛道が又平を連れて往診に出ているるすには、嘉次郎は許しを得て、賛道の蔵書(ぞうしょ)を読ませてもらう。あとで述べることになるが、いろんな医学書(いがくしょ)や、本草学の書物があった。
 志度(しど)にいたときにも、松岡春房(まつおか はるふさ)や、志度寺(しどでら)の僧周峯(しゅうほう)などについて基礎(きそ)的な勉強を重ねている嘉次郎だから、本を読むのは苦にならなかった。もちろん、こんどは専門(せんもん)の書物なので、わからねところ、むずかしいところはいくらでもあったが、賛道は親切で、手のあいているとぎに質問すると、きちんと答えてくれる。何度もくりかえし読み、また何冊もちがった本を読んでいると、以前にわからなかったところもしだいにわかってくる。

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 そのうちに嘉次郎は、書物に書いであることに、どうしても納得(なっとく)のいかぬところや、また書物と書物のあいだに、その説くところに矛盾した点があるのに気づいた。
「なぜでしょう?」
 賛道にたずねると、
「よく気がついた。おまえはこういうことばを知っているか。−−書を読みてことごとく信ずれば、書なきにしかず。−−どういう意味じゃ?」
「はい。書物を読んで、書いであることを全部信用してはいけない。中にはまちがいもあるし……書物は自分で考えながら読まなければならない、という意味だと思います。」
「そのとおりじゃ。医書や本草字書は、ことにそうなのじゃ。なるほど古典に書いてあることは、先輩たちの長いあいだの経験(けいけん)や研究(けんきゅう)をまとめたもので尊いものだが、うのみにしてはいけない。医学や本草学はすべて『実地』を基礎としなければならないし、研究すればするほど、先へ先へと進んでいくものなのだ。きのうの学説が、あすもそのとおりだとは断定できない。」

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「はい。」
「おまえたちは下痢(げり)のときには、げんのしょうこをせんじて飲むじゃろう。げんのしょうこは牛扁草(ぎゅうへんそう)ともいって、日本じゅうのどこにでも、野原や道ばたにもはえとる草じゃ。しかし、その同じげんのしょうこが、下痢止めだけでなく、便秘(べんぴ)の通し薬にもなるのじゃ。」
「ほう。同じ薬草が、下痢にも便秘にも? まるで反対のことにきくんですね。」
「そうじゃ。それが医薬というものじゃ。本に書いてあるからといって、げんのしょうこを下痢の薬と思いこんではいけない。また便秘の薬と思いこんではいけない。これはほんの一例にすぎんが、書物は尊重する。しかし、それから先は自分の勉強じゃ。」
「はい。」
「本に書いてあるからといって、たとえばどんな下痢にでもげんのしょうこを飲むのは、しろうと療法であって、医学でも医薬でもない。真の医学とは、実際の症状を十分にみて、こんな症状なら何々の薬、これなら何々の葉がきくと、個別に見分けることじゃ。こんなふうに、症状と処方について、ちょうどあてはまるものを見い出すことを、医学では『証(しょう)』といって、医師のいちばんたいせつな仕事なのだ。証によってぴたりとあてはめて選んだ薬が医薬であり、そうでなく、なんでも十ば一(ひと)からげに飲むなら民間薬じゃ。」
 賛道は、そんなぐあいに、学問のやり方の基礎について、ぴしりぴしりと教えてくれた。

 半年、一年とたつと、賛道は嘉次郎の聡明(そうめい)さを見こんで、しだいに本草学と医学の専門的な講義をしてくれるようになった。
『医学』といえば、だれにも常識的になんの学問かがわかるだろう。だから耳新しい『本草学』について、すこし解説をすると−−
 本草学というのは、一般に博物学(はくぶつがく)と理解されているが、それは嘉次郎の成長した平賀源内や、その他の学者の努力でオランダの理論と体系を取り入れてしあげたもので、まだこの時代では、薬にするための動植鉱物(どう しょく こう ぶつ)の研究といった、かなり範囲のかぎられた学問であった。
 その学問がはじまったのは、古代の中国で、最初は『不老長寿(ふろうちょうじゅ)』を目的とする薬の探求であった。それがすこしずつ幅広くなって、一般の医薬や食品の研究となった。本草学という名まえがはじまったのは、だいたい紀元前1世紀ごろからで、薬の中には動物や鉱物から取ったものもあるけれど、主として植物からなので、本草学と名づけられたのだろうといわれている。
 本草の書でいちばん古いのは、後漢(ごかん:25年〜220年)の時代に成ったとみられる『神農本草学(しんのうほんぞうきょう)』で、356種の薬物を上薬・中薬・下薬に分類して、それぞれの薬効などを述べているが、その中には、人参(にんじん)・甘草(かんぞう)・大黄(だいおう)などと、後世長く漢薬の中心となったものは、すでにほとんど記述されている。つまり本草学は、それほど古くから発達していた学問なのである。

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 それから中国では、引きつづいて多くの本草学の書物が出たが、中でも明(みん)の李時珍(り じ ちん)が、1590年に出した『本草綱目(ほんぞうこうもく)』という書物は、52巻の大部のもので、それまでの本草学を集大成した世界的な名著といわれる。
 李時珍は、27年もの長い年月をかけて中国全土をまわり、実地に資料を集めて研究したものである。賛道が説くとおり、自然科学の研究で、どんなに『実地の研究』がたいせつであるかがわかるだろう。
 この書物の最大の特色は、薬物にはじめて系統(けいとう)だった分類を行なった点である。

 すなわち、1892種の薬物を十六部に分けているのだが、参考までに示すと、
 無機物(四部)=水、火、土、金石。
 植物性(六部)=草、穀(こく:穀類)、菜(さい:野菜類)、果、木、服器(ふくき:絹や木綿(もめん)などの布、紙、器物)。
 動物性(六部)=虫、鱗(りん:魚やは虫類)、介(かい:貝類)、禽(きん:鳥類)、獣、人。
 以上十六部で、さらにこれが六十類、それから多くの種(しゅ)に分けられて、その相互間の系統が明らかにされ、それらの薬物の性質、産地、ききめなどがくわしく述べられている。
 本草学の日本への伝来はこれより古く、すでに奈良朝(ならちょう)のころには、唐の時代にできた『新修本草(しんしゅうほんぞう)』という本が読まれていたし、奈良の正倉院(しょうそういん)には、この時代の薬草が保存されていて、中国の本草学にもとづいての薬物の使用が知られる。
 平安朝(へいあんちょう)時代にはいると、国産の薬草と中国の書物とを照らしあわせる必要から『本草和名(ほんぞうわみょう)』という書物が出されている。
 その後、戦国(せんごく)時代には、戦乱のため本草学もおとろえたが、江戸時代になると、ヨーロッパや中国との貿易で薬物そのほかの物産が輸入されるようになり、本草学の知識がふたたび必要になってきた。
 嘉次郎が賛道に弟子入りした元文(げんぶん)5年を現時点として考えてみると、すでに家康(いえやす)の時代に、林羅山(はやし らざん)が長崎(ながさき)で李時珍の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』を手に入れて研究を進めているし、またその書物も日本でも復刻出版(ふっこくしゅっぱん)されている。宝永(ほうえい)4年1707年)には、貝原益軒(かいばら えっけん)が日本の産物を集めて『大和本草(やまとほんぞう)』という書物をあらわしているし、元文三年には、稲生若水が『庶物類纂(しょぶつるいさん)』をあらわしている。

 日本の本草学はこうしてしだいに進み、中国の書物を読んで勉強するだけでなく、日本全国でいろんな動・植・鉱物を採取して研究しようとする、実証的な試みがはじまりつつあった。
 また、将軍吉宗(よしむね)の産業振興の政策にともなって、長いあいだ輸入を禁せられていた洋書も、宗教関係のものをのぞく自然科学の書物は、すでに解禁の処置がとられていた−−。オランダを窓口として、ヨーロッパの近代自然科学の波が、蘭学(らんがく)の名で、やがて日本の学界に広まろうとする、それはまさに『あけぼの』ともいうべき時代だった。

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