新しい風
嘉次郎が三好賛道について医学や本草学の手ほどきを受けているちょうどそのころ、高松藩全体にも、実学を重んじ、産業を興(おこ)そうとする新しい風が、しだいに吹きはじめていた。
前年(元文4年:1739年)江戸で、前藩主頼桓(よりたけ)のあとを継いだ五代め頼恭(よりたか)が、この年(元文5年)の5月に、はじめて領地である讃岐に来て、高松玉藻城(たまもじょう)の主(あるじ)となったのである。
お国入りするとまもなく、重臣を集めて、頼恭は新しい政策を提案した。
「藩祖(はんそ)英公(えいこう)さま(頼重:よりしげ)以来、歴代の藩主はりっぱな政治に努力なさった。しかし、飢饉(ききん)や洪水(こうずい)や疫病(えきびょう)などがつづいて、藩も民も、かならずしも富んでいるとはいえない。それで余(よ:わたし)は、これからは大いに新しい産業を起こして、経済の振興をはかろうと思うが、みなはどう考えるか。」
重臣たちは、「ははっ」と平伏(へいふく)した。筆頭家老(ひっとうかろう)の大久保公敦(おおくぼきみあつ)が一同を代表して、
「ご上意(じょうい)、おそれ多いことにぞんじまする。」
と賛意(さんい)を表明した。かつて嘉次郎(かじろう)の四方吉(よもきち)が6歳のときに、頼豊のお供で志度(しど)に来て、四方吉に出会ったあの大久保飛騨公敦(おおくぼひだきみあつ)である。もう五十をこえて、あのころとちがって、頭髪(とうはつ)がだいぶ白くなっている。
「うむ。」
と、頼恭はうなずいたが、やがて姿勢を正して、
「おそれ多いことながら……お上(かみ)におかれても、殖産(しょくさん)のことには深くお心を用いられている。たとえば、野呂元丈(のろげんじょう)らの医官や学者に、富士山をはじめ日光(にっこう)・箱根(はこね)、さては吉野(よしの)・熊野(くまの)、あるいは遠く佐渡島(さどがしま)そのほかにまで、薬草の探査(たんさ)をさせられている。駒場(こまば)や小石川に薬園を作られて、植村政勝(うえむらまさかつ)らの学者に命じて各種の薬草の栽培(さいばい)をさせられている。また青木昆陽(あおきこんよう)に命して、甘薯(かんしょ:さつまいも)の栽培を試みさせたり、甘蔗(かんしゃ:砂糖(さとう)きび)の試作もなされている。藩を富ませ民を富ませ、ひいては日本という国家全体を富ませるためには、どうしても新しい産業をおこす以外にない。上(うえ)さまのなされておることが、よいお手本じゃと思う。」−60−
「御意(ぎょい)−−。」
飛騨をはじめ重臣たちは、ふたたび平伏した。頼恭が『お上(かみ)』という以上は、八代将軍吉宗(よしむね)よりほかにない。
吉宗は幕府中興(ちゅうこう)の名君といわれた人だが、生まれは紀州藩(きしゅうはん)二代め藩主、徳川光貞(とくがわみつさだ)の第四子だった。はじめ越前(えちぜん)の国で三万石の小大名になっていたのが、兄があいついで死んだため紀州藩主となり、さらに七代将軍家継(いえつぐ)の若死にで、総本家を継いで将軍になった人である。
そういった、苦労の多かった経歴のせいか、歴代将軍とちがって、儒学(じゅがく)とか和歌とかいった貴族的な教養を好まず、そのかわり、法制・経済・産業から天文学・博物学など、実証的、または実用的な学問に興味をよせ、大いに奨励(しょうれい)もした。宗教関係以外の洋書の禁を解(と)いたり、洋書の翻訳(ほんやく)をゆるしたりして、蘭学(らんがく)の広まるはじめを作ったのも、そうした吉宗の個性から出たものといってよい。同しごとが高松藩のわかい藩主であるこの頼恭にもいえるだろう。頼恭は前にも述(の)べたとおり、常陸額田藩(ひたちぬかだはん)二万石の小大名の次男坊から、親戚(しんせき)である高松松平藩(たかまつまつだいらはん)十二万石の領主として、養子にきた人である。貴族的な学問よりは、吉宗と同じく実利・実用的な学問が身にあったであろうし、さらに、吉宗の日本経済に対した立場も、頼恭の讃岐(さぬき)経済に対した立場も、ほとんど同じといえるものであった。いわば頼恭は『小型吉宗』ともいうべき立場で、忠実に吉宗に学ぼうとしたのはうなずけるであろう。
−61−
頼恭にいわれるまでもなく、産業振興は、だれが考えても、必要なことにちがいなかった。重臣たちは、この人をむかえて、むしろ心強く思っただろう。そろって平伏して、殿の政策に大賛成である旨(むね)を答えた。
「思うに、産業には、その国々の立地(りっち)案件によって、適不適(てきふてき)があるはずじゃ。当讃岐(とうさぬき)の国においては、どんな産業が適していよう?」
頼恭は、重臣たちを見まわした。
「おそれながら……。」
両側にいながれた中ほどから、ひとりの武士が声をあげた。三十になるかならぬか、一座の中ではもっとも年のわかそうな男であった。
「おう、縫殿(ぬい)か。申してみよ。」
西尾縫殿であった。これも四方吉が6歳のときに、頼豊と問答(もんどう)したときの従者のひとりだったあの西尾縫殿である。
「はっ。おそれながら……当讃岐の国は、暖国(だんこく)でございます。瀬戸内海に面しております。それに、雨がすくのうございます。−−当国の産業振興には、このような点を考えるべきであろうと存じます。」
「ほほう、雨量はすくないのか。」
「は。おそらくは、日本国じゆうにてもっともすくないかと。−−したがいまして、稲作のためには数多くのため池がほられてありまして……、稲作には支障(ししょう)はないのですが、それよりも、雨のすくないという特性を、積極的に活用すべきかと存じます。」
「うむ。それで雨のすくない場所に適する産業というと……?」
「は。まず製塩業。−−瀬戸の静かな海に面している関係もありますし……それに、むこう岸(ぎし)の赤穂(あこう)などでは、ごぞんじのごとく製塩業が盛んでありまして……。」
「うむ。つぎは?」
「古くから、いささかは産しておりますが、綿花の栽培とその加工を、さらに積極的にいたすべきかと考えます。」
「うむ。綿糸(めんし)や綿布(めんぷ)は、ずいぶん多量のものを異国から買っておるのう。」
「御意(ぎょい)。−−その輸入をふせぎ、金銀の海外への流出をふせぐためにも、綿花栽培は積極的に奨励(しょうれい)すべきこととぞんじます。雨量のすくない当国は、もっともそれに適しておりましょう。」
「うむ、もっともな着眼だ。−−して、まだほかにも、ぞんじよりがあるのか?」
「は−−。」
縫殿は、そこで一礼した。ほおに、あるかないかのほのかな微笑を浮かべて、
「海のものやら山のものやら、とんと見当がつきませぬゆえ、殿に言上(ごんじょう)いたすのは、はばかられるのですが……。」−62−
「かまわぬ。夢物語でもよい。」
「はっ。それは砂糖でございます。甘蔗(かんしゃ)を植えるのでございます。−−将軍さまが先年(注:享保(きょうほう)19年、1734年)小石川の薬草園や吹上御苑(ふきあげぎょえん)で試植(ししょく)なさいましたように、なんとか甘蔗のよい苗(なえ)を手に入れまして、これを大いに栽培し、砂糖を取るのでございます。」
ううむと頼恭はうなった。
「それはよい考えじゃが……成算はあるのか?」
「いまのところは……ございません。三代家光(いえみつ)将軍の時代に、琉球(りゅうきゅう)から蔗苗(しゃびょう)を入手なさいまして、諸国にお分けになり、当国へもまいりました由(よし)でございますが、いま甘蔗そのものは残っておりません。」
「なぜであろう?力をいれなかったのであろうか?」
「そうではございますまい。」
縫殿は、確信ありげにいった。「では、たいせつな蔗苗(しゃびょう)が、なぜ残らなかったのだ?」
頼恭(よりたか)は、からだを乗り出すようにして、たずねた。
「は、これは、わたくしの推測でございますが……。」
西尾縫殿(にしおぬい)は、慎重(しんちょう)に答えた。
「その間の事情は古記録にもしるしてございませんが、たぶん、苗そのものが、枯れていたのだろうと考えられます。」
「枯れていた?お上(かみ)からお分けになった蔗苗がか?」
「は。たぶん、琉球も特産品をよそに渡すのはいやだったのでしょうし、苗そのものが、はじめからよくなかったろうと思います。そのうえ、長い月日をかけて江戸(えど)に運び、また長い月日をかけて讃岐(さぬき)に運んだのでは、かりにどんなにじょうぶな苗でも、おそらくは枯れましょう。−−当国に着きましたころには、もう植えることも育てることもできなかったものとぞんします。したがいまして、お上(かみ)をはばかりまして記録も残っていないのではありますまいか。」
「なるほどのう。」
頼恭は、感心のおももちであった。−63−
「甘蔗による製糖は、今でも日本では、琉球や薩摩(さつま)の特産であります。昔を考えますと、甘蔗はもとインドの産でありまして、釈迦如来(しゃかにょらい)の祖先にも、甘蔗増長王(かんしゃぞうちょうおう)という方がおられました由、仏典(ぶってん)にも見えているとか聞きました。それが三国時代とかに中国に渡り、やがて琉球にも渡来したのでありましょう。慶長(けいちょう)年間に、薩摩の直川智なる者が琉球に行こうとして台風にあって中国に漂着し、そこで偶然(ぐうぜん)製糖術を習い、帰りに蔗苗を持ってきて、これを奄美(あまみ)大島そのほかに植えたそうでございます。それがいまも、薩摩の特産になっているわけでありますが……、それから考えますのに、甘蔗の栽培には暑いところが適するのでありましょう。」
「うむ。」
「さすれば当国は、日本の中では暖国(だんこく)に属しましょう。そのうえ雨がすくないということは、つまり日照りが多いのは、暑いのと同じ効果に通じましょうし、薩摩で育つ以上は、よい苗さえ手にはいりますれば、当讃岐の国で育たぬ道理はないと考えるのです。」
「なるほど。」
頼恭はうなずいた。権殿(ぬい)の理路整然(りろせいぜん)とした上申が、た
のもしく思われたようすだった。
「殿(との)−−。」−64−
家老の大久保飛騨が、ロをはさんだ。
「殖産(しょくさん)の儀(ぎ)、衆知(しゅうち)を集めねばなりますまい。−−つきましては、その衆知の中心となる者をお定めたまわり、つねにその者を中心として、研究や実施を進められてはいかがでございましょう?」
「それは、よい考えだ。さっそくにきめよう。だれが適任者であろうか。」
「これはもう、考えるまでもなく、きまっているようでありまして……。」
飛騨はおだやかに微笑した。
「だれじゃ?縫殿じやというのか?」
頼恭も微笑した。
「御意(ぎょい)。最適任でございましょう。さっそくにお命じたまわりませ。」
頼恭はこのとき、ちょうど数え年30歳で、縫殿とは、ほとんど同年輩(ねんぱい)だった。参謀(さんぼう)として用いやすく、相談しやすい年かっこうでもあった。
西尾縫殿の『産業振興参謀長』の役目は、こうしてその場できまった。そんな藩の決定は、すぐにうわさが伝わって、賛道や嘉次郎の耳にもはいった。
蔗苗(しゃびょう)入手の秘密プランなどをのぞくと、産業の振興ということ自体は政治の機密というわけではなく、むしろ明るいニュースとして領民に広く知らせ、協力を求めたいことがらだった。
「いよいよ本草学の出番がくるぞ。しっかり勉強しておけよ、のう。」
賛道は大いに嘉次郎をはげました。
いわれるまでもなく、嘉次郎は懸命に勉強を続けた。半年あまりもたつと、又平(またへい)は嘉次郎に迫い抜かれてしまって、なかなかいびりようがなくなった。
明けて元文6年は、嘉次郎数え年14歳。この年は2月末に改元して、寛保(かんぽう)元年となる。
そのお正月に、ひさしぶりで休みをもらって志度に帰った嘉次郎は、さっそく渡辺伝左衛門をおとずれた。
「明けましておめでとうございます。」
「ああ、おめでとう。ようきたなあ、大きようなったやないか。」
伝左衛門は喜んで、嘉次郎を自分の書斎に通した。見ると机の上に、たくさんの本が積みあげられてあり、そばにはなにか、書きかけの草稿(そうこう)があった。
「ご勉強ですなあ。なんの本ですか?」−65−
「これか−−。」
伝左衛門は、机の上の一冊を取りあげて、示した。
「俳諧の本じゃ。いま、芭蕉宗匠(ばしょうそうしょう)の句集(くしゅう)を読んどるところや。」
「ほう、発句(ほっく)をはじめたんですか。じゃあ、その書き物も発句(ほっく)ですか?」
「うん、わしの作った句や。」
「見せてください。」
「いや、まだ人に見せるほどの句はできとらんが、−−じゃあ、まあ一句だけ。」
伝左衛門は、書きかけの半紙の中から、一枚だけを選んで嘉次郎に示した。
凧(たこ)の糸同じ遊びのひとむかし 桃源
きれいな字で、そんな俳句が書かれてあった。嘉次郎は声をあげて続みくだして、
「桃源というのは、おまはんの号ですか?」
「そうや。幼名の桃吉から取って、桃源という雅号(がごう)にしたんや。」
「風流(ふうりゅう)でいい雅号ですなあ。ところでこの句は、どんな意味ですか?」
「わからんか?嘉次郎にわからんとすると、これはまずい。」
伝左衛門の桃源は、苦笑した。
「お正月がきて、子どもたちが凧上(たこあ)げ遊びをしている。それを見て、わしも子どものころには、あんなにして遊んだなあと思い出す。−−その遊び仲間は、四方吉というわんばく小僧じゃないか。おまえをしのんで作った句じゃないか。」
「そうですか、それはこまった。」
嘉次郎は、も一度声をあげて読んでから、頭をかきながらいった。
「それにしても、いささか舌たらずで……。」
「こいつめ。」
伝左衛門はいったが、にこにことじょうきげんだった。
「ところで嘉次郎、おまえも発句をやらんか。弟子にしてやるぞ。」
「発句はやってもええですけんど、おまはんの弟子になると、おまはんよりへたな句を作らなならんわけで……、それがちょっとむずかしうて……。」
「こいつめ!」−66− も一度いって、伝左衛門は嘉次郎をなぐりつける身ぶりをしたが、たちまち、はははと大声で笑いだした。
「じゃあ、やるわけやな。」
「ちょっと待ってください。しつは……わたくしは勉強することが多すぎて……。」
「そんなことはない。」
伝左衛門は、笑いをおさめて真顔(まがお)になった。
「俳句(はいく)は、なんぽいそがしうてもできる。−−それに、いそがしいというと、いまどんな本を読んどる?」
「はい。本職の本草学(ほんぞうがく)や医学の本はもちろんですが、三好先生はずいぶん本を持っとられますので、お借りして、『太平記(たいへいき)』や『平家物語(へいけものがたり)』などを一所懸命前んでいます。」
「おもしろいか?」
「そりやおもしろいです。」
「けんどのう、俳句の本もおもしろいぞ。それに『太平記』や『平家物語』なら、一節読むのにもかなり時間がかかる。けんど俳句は十七文字や。どんな短い時間にも読める。−−どうや、じゅうぶん時間のあるときには本職の本草学や医学の本を読み、ちょっと休みというときには、太平記などを読む。そのほかの短い手すきの時間、−−たとえば患者(かんじゃ)の家の玄関(げんかん)で先生を待っとるとぎなどには、ちょっとふところから句集を出して読む。そういうやり方で、俳句をはしめてみんか?」
「まあそれほどむりせんでも……やろうと思えば……。」
「いや、それでええのや。」
伝左衛門は、大まじめでいった。
「俳句は日常坐臥す(にちじょうざか)のうちにある。理屈(りくつ)やないんや。生活そのものなんや、−−先生といっしょに道を歩いとるときでも、薬草園で手入れしとるときでも、薬をせんじとるときでも、いつでも俳句は考えられるし、作れるもんなんや。おまえはすこし理屈っぽすぎるし、自信のほうも強すぎるほうや。まあときには花をながめたり、空を行く雲や川に流れる水を、ぼうっとあほうみたいに見たりして、むだな時間をすごすのも、おまえのためにはたいせつなことや。−−どうや、ええ先生を紹介したる。わしといっしょに俳句をやれ。」
伝左衛門にそんなにまじめにすすめられると、嘉次郎はうつむいて、しばらく考えていたが、
「わかりました。」
顔をあげて、微笑して答えた。
「弟子入りさせてもらいます。ひとつよろしくおねがいします。」
「そうか、それはええこっちや。」
伝左衛門は、心から笑いをほおにあふれさせた。それから女中を呼んで、お正月の祝(いわ)いぜんをいいつけた。−67−
伝左衛門はおとななので、かなりお酒を飲み、嘉次郎はさかずきに一ばいだけ、お祝いのしるしにちょうだいして、ごちそうばかりむしやむしや食べた。食べながら、高松での話を、休みなくしやぺって報告した。
志度滞在(しどたいざい)はほんのご一日ほどだったが、嘉次郎はひさしぶりに、松岡春房や志度等の周峯(しゅうほう)など、旧知の人たちにあいさつしたほかに、伝左衛門に連れられて、指月堂芳山(しげつどうほうざん)という俳人の家を訪問している。
「あにさん、やっぱり弟子入りしてよかったぞ。俳句というものは、気持ちがおちついてええもんじや。」
高松へ帰る朝、伝左衛門をおとずれて礼を述べると、伝左衛門は嘉次郎を待たせて奥の間にはいったが、やがてふろしき包みを持って出てきた。
「これには芭蕉の句集と、浪華(なにわ)の椎本芳室(しいもとほうしつ)宗匠の句集がはいっている。芳室宗匠は芳山宗匠や、わしの父の不遠(ふえん)の先生にあたるお方や。ほかにわしの句ののっとる本も一冊ある。持って帰って読んでくれ。−−ええか、本職のじやまにならんように、ちょっとした時間に見るんやぞ。ふところにいれといて……ぽろぽろになってもええ。またつぎにきたときにあげるから……。」−68−
嘉次郎は、涙の出るほどうれしかった。嘉次郎の家は豊かでないので、余計な本までは買ってもらえない。それを伝左衛門は、桃吉といった少年のころから、なにかと嘉次郎に目をかけてくれた。嘉次郎はこの人の友情にむくいるためにも、人一倍勉強して、りっぱな学者にならなければならないと、覚悟(かくご)を新たにした。
高松に帰ると、また以前の生活がはじまる。伝左衛門の訓戒(くんかい)を守って、又平などにもいじわるはすまいと思うのだが、又平ののろまな動きを見ていると、つい腹がたっていじわるをしたくなる。
そんなときには、嘉次郎は発句を考えることにした。
−−薬草の煮えるかおりや春浅し
いかん、こんなものは句になっておらん。−−また考えて、作りなおす。そのうちに、いましがたの腹だちはどこかに消えて、静かな気持ちになってしまうからふしぎだった。
やがて二年めの春がきた。四月の末に志度から手紙で、妹が生まれたことを知らせてきた。嘉次郎はうれしかった。今まではひとりっ子で、兄弟の多い友だちを見ると、うらやましいと思うことがあった。それが実の妹が生まれたと間くと、このうえもなくうれしく、たのもしく心強いのだった。
しかし嘉次郎は、志度へは帰らなかった。師匠の賛道が、いまでは又平よりも嘉次郎をたよりにしていて、休むとはいえなかったのだ。
つづいてたよりがきて、里与(りよ)と名づけたことが知らされた。
(里与よ、どうか元気に育ってくれ!)
嘉次郎はすぐにお祝いの手紙を書いて、志度への飛脚使に託した。
−−実際、あとになって里与は、嘉次郎にとってたいせつな、たよりになる妹になるのである。ずっと後年の話だが、白石嘉次郎が平賀源内と名まえもかえて、さらにいっそうの学問をこころざして江戸に出ることができたのは、成長した里与が、病気で寝ている祖母と、病身がちな母の世話をみてくれたからだった。
人間というものは、気持ちが明るいと勉強も仕事もはかどるものだ。里与の誕生ではげみのついた嘉次郎は、それからはいっそう学問にも仕事にも精を出すのだった。また賛道のゆるしを得て、剣術の道場へ通ったりもした。
そんなにして、また5、6年の歳月が、たちまちのうちに流れ去る。
その間のおもなできごとといえば、寛保(かんぽう)四年を改元(かいげん)した延享(えんきょう)元年(1744年)に、筆頭家老(ひっとうかろう)の大久保飛騨がなくなったこと。その翌2年に、伝左衛門の父の不遠がなくなったこと。さらに中央では、八代将軍吉宗が六十二歳で隠居して、子家重(いえしげ)が九代将軍になったこと、などであった。−69−