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わかき薬園主任

 延享(えんきょう)3年の9月中ごろのある午後だった。嘉次郎は七番町の吉井弥兵衛という足軽の家に往診(おうしん)に行っての帰りだった。
 空が、どこまでも青く澄みきっていた。旧暦(きゅうれき)の9月といえば秋のなかばで、吹く風もこころよい。
 嘉次郎は数え年十九歳になって、このごろでは軽症患者(けいしょうかんじゃ)や慢性患者(まんせいかんじゃ)の定期往診などには、賛道の代診をしている。
 きょう行ってきた吉井の家では、二十歳になる長男の助太郎が、労咳(ろうがい)で長らく寝こんでいる。労咳とは現在でいう肺結核(はいけっかく)の古い病名である。
「先生−−、いつまでもこんなことしていて、わたしはほんまになおるんやろか?」
 青いやせた顔で、助太郎は嘉次郎にいった。
「父は身分の低い足軽で、貧しいし……、こんなことでは薬代もかかって気の毒やし……。わたしは、はよ、ようなって、なんとか働きたいんやけんど……。」
「なおるとも。」
 まくらもとにゆうゆうとすわって、嘉次郎は明るい声で答えたのだった。
「その証拠(しょうこ)に、夏のあいだは熱があったし、血たんが出たり、寝あせをかいたりしたやないか。それがいまでは、熱もあんまりないし、たんもせきもおさまったやろ。ようなった証拠だよ。−−そんなにあせっては、なによりもからだにようない。くよくよせんと、気を強う持ちなさい。」
「はい−−。」
 嘉次郎の激励に、助太郎は素直にうなずいてくれたが、帰りの道々、嘉次郎は青々と晴れわたった秋空の下で、澄んだ青空とは反対にゆううつだった。
(あれはけっして、ほんとうによくなったわけではない。初期の急性の労咳が、慢性(まんせい)化してきただけのことだ。それはすこしはよくなったかもしれないが……病状の安定が、軽快の証拠とばかりは考えられない。−−ああ、もっといい薬を、じゃんじゃん飲ませてやることができたら−−。)

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 そう考えると、嘉次郎は腹がたち、くやしいのだった。
(補中益気湯(ほちゅうえつきとう)でも情しみなく飲ませてやることができたら、あの病人はもうすこしようなるのに……。)
 しかし、補中益気湯は、黄耆(おうぎ)・人参(にんじん)・当帰(とうき)・陳皮(ちんぴ)・大そう・柴胡(さいこ)・生姜(しょうが)・甘草(かんぞう)・升麻(しょうま)そのほか、多数の薬種をあわせたもので、中でも黄耆は中国、甘草は満州・蒙古(もうこ:モンゴル)の特産であり、人参は朝鮮人参のことで、もちろん朝鮮の特産物である。どれも輸入薬であって、きわめて高価である。−−とても足軽の収入では、ふんだんに用いることはできない。
 『医は仁術』といって、医術とは人助けをするためのもの、と考えられていたので、嘉次郎は賛道にたのんで、ときどきは安い代価の薬にこれらの高貴薬を入れて助太郎に与えているが、賛道の経済には限度があった。
 藩医(はんい)とはいっても、殿さまやその一族、家老やその家族などを診察(しんさつ)するのは、もっと身分の高い奥医(おくい)で、賛道は軽輩(けいはい)や、ついでに町家の人々もみる、町医者に近い身分だった。とてもいちいち、自費で高価薬ばかりほどこすほどの財力はなかった。
(なんとかこれらの高価な薬種が、日本でも栽培できて、だれにも安く使えるようにならないものだろうか。)
 嘉次郎はうつむいて、考えながら歩いた。

(同じ病人でも、権勢(けんせい)のある者や富んでいる者は高価な薬を自由に飲むことができて、貧しい者、身分の低い者は、ききめのうすい、ありきたりの薬を飲むしかしかたがない。そんな世の中の不合理は、なんとかならないものだろうか?)
 嘉次郎はまた、そんなことまで考えるのだったが、それは世の中のしくみ全部にまでおよぶことで、とても嘉次郎ひとりの力では、できそうにもなかった。
(そうだ。−−なんとかして舶来(はくらい)の薬種のうち、できるだけ多くのものの国産化に努力してみよう。気候がにていて、土(つち)そのものがにていれば、ちがう国でも同じ植物の育たねわけはあるまい。きっとできるはずだ!)
 嘉次郎は、きょうもまたそう思った。それは少年の日以来、何度もくりかえしては思ったことだったけれど、いまは条件が熟していた。−−少年のころは、たんに少年らしい夢であり、あこがれであるにすぎなかったのだが、いまは具体的に、なにをどうすればよいのか、ばくぜんとではあっても目算があるのだった。
 −−甘草(かんぞう)・桂枝(けいし)・大黄(だいおう)・人参(にんじん)・麻黄(まおう)・阿膠(あぎょう)、−−嘉次郎は指折り数えて、思った。これらは舶来品(はくらいひん)だが、漢方の処方にはよく便われる薬なのだ。
 桂枝はくすのき科の桂樹という木の幹や枝の皮をはいだもので、強壮剤(きょうそうざい)・健胃(けんい)・整腸(せいちょう)・頭痛・寒けなどにききめがある。中国南部からベトナムにかけて自生し、または栽培されている。

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 甘草は、さきにもいったとおり、満州・豪吉に産するものだが、まめ科の植物で、根と根茎を水あらいして乾燥したもの。解毒(げどく)や鎮痛(ちんつう)、せき・どうきを止めるのに効力が強い。(現代になっては、胃潰瘍(いかいよう)に有効なことが証明されている。)
 大黄はたで科の植物で、中国西北部の産で健胃薬。麻黄は中国北部に産するまおうという多年草で、地上茎がいろんな症状に用いられる。阿膠は植物ではなく、うしやうまなどの皮や骨から作った動物性にかわで、止血や鎮痛そのほかいろんな用途がある。中国の山東省産を最良とする。
 人参は、いうまでもなく有名な朝鮮人参で、この時代には薬の王さまのようにいわれた。うこぎ科のおたねにんじんの根の、細い根をのぞいたもので、品種別によって白参(はくじん)・紅参(こうじん)・鬚生干(ひげしょうぼし)などの名があり、白参や紅参を製造するときに除去(さくじょ)した細い根を乾燥したものは、別に鬚人参(ひげにんじん)と呼ばれる。質はさがるが、ききめはある。
 嘉次郎は考える。−−これらはすべて舶来品であって、そのために値段が高く、庶民の使用が困難なのだが、かならずしも国産化が不可能なものとは思われない。
 たとえば強壮・健胃・新陳代謝(しんちんたいしゃ)の効力が高いので、万病にきく霊薬のようにいわれる朝鮮人参については、わが国でも国産化の努力が絶えずつづいている。近い例をあげると、享保(きょうほう)4年(1719年)には対馬侯(つしまこう)が朝鮮人参6株を幕府に献上(けんじょう)して、幕府はその試作をしている。
 そんな試作の範囲(はんい)を、もっと広げればよい。またそれら異国産品の国産化にかならずしも成功しないでも、日本のものでも野生にばかりたよっていて、栽培に成功していないものが多数ある。それらの栽培化に成功したなら、量的に多く産することができるようになって値段が安くなり、医者も患者もぜいたくに使うことができるだろう−−。
 考えているうちに、もう三好賛道の屋敷まで、帰り着いてしまった。
 診察室にはだれもいなかったので、往診用の薬籍を置いて記録を書きこんでいると、賛道の妻女がよびにきた。
「嘉次郎さん、お客さまですよ。客間でお待ちかねですよ。」
「お客さまって、−−どなたですか?」
「真田彦兵衛さまですよ。」
「へええ、おめずらしいなあ。」
 いそいで記録を書きおえると、賛道の客間へ、いそいそと行った。敷居(しきい)ぎわに手をついてあいさつすると、
「おお、嘉次郎か。あいさつはよい、これへはいれ。」
 彦兵衛が、にこにこ顔で手招いた。
「きょうは真田さまが、よい知らせを持ってきてくださったのだぞ。さあ、ずっとはいれ。」
 賛道も彦兵衛におとらぬえがおで、彦兵衛の下座(しもざ)からいった。
「はい。」

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 元来が陽気であまり遠慮のない嘉次郎なので、そのまま賛道の下座まで進んですわった。
「じつはのう、嘉次郎、お殿さまが産業振興(さんぎょうしんこう)のおぼしめしで、いろいろ研究をさせていなさることはおまえも知っておろうが、その一端として、こんど新しく岩清尾塔山(いわせおとうやま)の南麓(なんろく)の、西芳寺(さいほうじ)のあたりに大きな薬草園を作られることになってのう。」
「そうですか。それはいいことですねえ。」
「うん。それで……じつは嘉次郎、おまえをその薬草園の係りに、召し出したいとのおおせなのじや。」
「ええっ、わたくしを!」
 嘉次郎はおどろいた。
「どうしてまた、お殿さまがわたくしなどを……。」
「うん。産業経済のことをつかさどっておられる西尾縫殿(にしおぬい)どののご推挙(すいきょ)じや。−−ぞんしておろう、西尾どのを。」
「はい。−−いや、お名まえばかりですが。」
「うん。ところが西尾どのは、そちをようごぞんじじや。わしとまったく同しくらいになあ。」
 彦兵衛は、愉快そうに笑った。それからさきはことばにはしなかったが、例の四方吉が六つのときの、殿さまとのお茶を飲め問答のときのことをいっているのであった。
「嘉次郎−−。」
 賛道が、あらたまった顔で、こちらを見た。
「西尾さまのご推挙とはいっても、もとはといえば真田さまのご推挙なのじゃ。これでおまえの出世の道も開けるし、せっかくこころざした学問も、これで生きようというものじゃ。−−真田さまに、よくお礼を申さねぱならぬぞ。」
「はい。」
 嘉次郎があらたまって彦兵衛に礼をいおうとすると、彦兵衛は手を振って制した。
「いや、わしなどではない。そちはお師匠の三好どのに感謝をわすれてはならぬぞ。−−西も東もわからぬそちを、5年も6年も手塩にかけて、よく教え導いてくださった。やっとものの役にたつようになったかと思うたら、もう藩へお召しあげじゃ。−−それを、不服もいわれず、そちの出世じゃというて喜んで手ばなしてくださる。ありがたいことじゃ。」
「はい−−。」
 嘉次郎は、ほんとうにそのとおりだと思った。自信が強いほうなので、心のどこか片すみでは、それはおれの実力なのだ、と思わないでもなかったが、でもそれは、ほんの一瞬(いっしゅん)の閃光(せんこう)でしかなかった。
「真田さま、お師匠さま。ご恩は嘉次郎、心に銘(めい)じてぞんしております。生涯(しょうがい)わすれるものではございません。」

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 両手をついて、心から感謝のことばを述べた。
「ご恩にむくいる道は、しっかり勉強してりっばな学者になり、お国のため、お殿さまのため、また一般人民のために役にたつことだと思います。どうかこれからも、いろいろ教えてくだざいませ。」
「よういうた!そのことばをわすれまいぞ嘉次郎。それでこそ、殿さまのお召し出しの御意(ぎょい)にもかなうというものじゃ。」
 彦兵衛は身分の高い侍なので、ことばはいつも、殿さまのおためとか、忠勤をはげむとかいうことばかりであった。
 彦兵衛を主賓にして、それから三好家では、嘉次郎の出世を祝う、ささやかな宴が開かれた。又平も嘉次郎とならんですわっている。
「嘉次郎さん、よかったのう。」
嘉次郎のさかずきに酒をつぎ、又平は黒いにぶい顔ながら、率直(そっちょく)に喜びを表明してくれる。
「いろいろきみをいじめて悪かったが、まあ、かんぺんしてくれやのう。」
「なんのなんの又平さん。わたしこそなまいきに、たてついてばかりおって、ほんまにすみませんでした。」
「お殿さまのお声がかりで、これから出世してえらい学者や役人になっても、やっぱりわしともつきおうてくれるかのう。」
「あたりまえですよ、そんなこと−−。」
 嘉次郎は19歳、又平はもう20歳であった。ふたりはさかずきをあげて乾杯した。


 その夜、嘉次郎は志度の両親とおばばさんに、このたびのお召し出しのことを報告する手紙を書いた。
 翌朝は早く起きて、身なりを整え、まず真田彦兵衛を訪問して、彦兵衛に連れられて西尾縫殿をおとずれた。

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「おう、四方吉(よもきち)か。これはまた、えろう大きうなったものじゃのう。」
 縫殿は自分の記憶のままに幼名で呼んで、親戚(しんせき)の子どもでも見るような親しさで、嘉次郎の成長に驚(おどろ)きの声をあげた。
 なるほど、正装してみると、嘉次郎はからだが大きくて、なかなかりっぱである。背丈は五尺七寸あまり(175センチ)にのびているし、太ってはいないが、それでも体重も十七貫(63.75キロ)ほどはある。
 色白の顔に血色がよく、子どものときから高かった鼻がいっそう高くなって、りっぱである。顔はかなり長いほうで、目は細いが切れ長で、りこうそうにきらきら輝いている。わりあいに小さな口もとも、きりっとひきしまっていて、男らしい。−−『あの日』から13年もたっているのだから、縫殿がおどろいたほど成長しているのは、当然のことであった。

 彦兵衛が、もはや嘉次郎と改名しておりますと注釈(ちゅうしゃく)してくれた。
「そうじゃったのう。ところでさっそくしやが嘉次郎、そちにはお薬坊主格(おくすりぼうずかく)として、殿(との)より薬草園勤務のお申しつけがあった。薬草園では、そちが現場係りの主任を勤めるのじゃ。お扶持(ふち:給料)も一人前にくだされる。そちの下に見習いの助手がつくことになっておる。」
「わたくしが主任に! まことでございますか?」
 さすがの嘉次郎が、思わず大声を出した。
「そのとおりじゃ。助手の下には中間(ちゅうげん)が何人かつき、さらに百姓が、そのときどきの必要な人数だけ、手つだいにくることになっておる。」
 ははっと、嘉次郎は平伏した。まるで夢のような幸運であった。
(おれに、やれるだろうか?)
 一瞬、不安を覚えたが、
(よし、やってやる! これで、かねての理想が、いよいよ実現の端緒(たんしょ)につくのだ!)
 たちまち、自信と情熱がたかぶって、不安を圧倒してしまった。
「ところで嘉次郎、主任となれば、薬園の成功、不成功はそちの方寸(ほうすん)にかかる。そちはどのような方針でやろうと思うか?」
 社殿が、一瞬、表情をきびしくしてたずねた。
「はい、おそれながら−−。」
 嘉次郎は一礼してから、丁重に答えた。
「まず当地産の薬草類を選んで、その優良種を育てることが最初かと心得ます。」
「うむ。で、それができたら、つぎは?」

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「はい、つぎはご領内をくまなく探索(たんさく)しまして、これまでに当国に産することを知られていなかった薬草を発見し、これを移し植えることかと心得ます。」
「うむ、つぎは−−?」
「第三は日本国内で、他国に産して当讃岐に産しませぬ薬草の中で、当国の地質、気候にあうものを研究しまして、移し植えることでありましょうか。」
「して…・?」
 縫殿は、目つきでつぎをうながした。
「それができますれば、つづいて広く目を世界にむけたいと考えます。舶来の高価な薬種のうち、日本にて有て得ますものはすぺて手づるを求めて、種子なり苗なりを取りよせ、その栽培を研究いたしたいと心得ます。」
「うむ、たとえば?」
「はい、限りがございませんが、たとえば朝鮮人参−−。それに薬種にはかぎらず、甘蔗(かんしゃ)なども−−。」
「なにっ、甘蔗−−?」
 縫殿の目が、きらりと光った。
「して、そのようなもの、当国にて栽培が可能だと思うか?」
「はい。」
 嘉次郎は、はっきりと答えた。
「いまだ実地に研究したことがありませんので、かならずとは申し上げかねますが、条件を選べば、あるいは、可能かとぞんじるふしがあります。」


「条件とは?」
 縫殿は、なおもきびしい調子でたずねた。
「はい。−−異国産のものには、寒い国の産物、暑い国の産物、あるいは山地の産物、沼沢(しょうたく)地の産物などと、気候および土地の状況、それに地質など、いろいろな特別の条件によるものがありましょう。当国はさいわい、北に瀬戸の海をひかえて平地があり、南と西には、かなり高くけわしい四国山脈の山々があります。気候はしたがって、海ぞいの平地部では温暖ですが、南の山間部ではかなり寒く、とくに高山の頂上近くでは、酷寒(こっかん)の地もあるわけです。−−ということは、暖国の物産はもとより、暑い国や寒い国々の物産でも、それに適した土地を選べば、栽培が可能ではなかろうかと、考えられるわけであります。」
「うむ−−。」
 縫殿は大きくうなずいたが、きゅうに表情をゆるめて、

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「やってみよ、嘉次郎。」
 えがおで大声でいった。
「思うとおりにやってみよ。わしと真田氏(さなだうじ)とで、しっかりあと押ししてやるぞ。」
 そのとき、門番の老人が庭先に顔を出して、
「申し上げます。池田玄丈(いけだげんじょう)という者が、ただいま、お目どおりを願い出ておりますが……。」
「苦しうない、これへ通せ。」
「へえ。」
 やがて姿を見せたのは、嘉次郎よりはずっと小柄な、まるい顔とまるい目をした、おとなしそうな少年であった。敷居ぎわに手をつかえて、縫殿と彦兵衛にていねいにおしぎした。
「嘉次郎、これが池田玄丈というて、さきほど西尾さまがおおせられたそちの助手を勤める者じゃ。いろいろ教えてつかわせ。」
 彦兵衛が紹介した。つづいて少年に、こちらが白石嘉次郎で、薬園の主任となる者だから、万事そのさしずにしたがって精々仕事にはげむように、と申しつけた。
「へえ−−。」
 玄丈は町医者の次男坊で、十六歳になるということであった。口数のすくない性質らしく、ベつにそれ以上のあいさつのことばも述べなかった。
「さっそくに新しい薬園の土地を見てくるがよい。真田氏(さなだうじ)、ご苦労ですが案内してやってくださるまいか。」
「承知しました。」
 彦兵衛はていねいにいって、立ちあがった。三人は西尾家の門を出た。薬草園の敷地は、町の西南にあたる岩清尾塔山(いわせおとうざん)のふもとにあった。近くに岩清尾八幡宮があり、また西方寺というお寺があった。

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 薬園になる土地は、まだふつうの畑地と草原のままで、くいを打って区画をし、百姓が二十人ほど、中間たちにさしずされて準備の整地をしているところだった。三人が姿を現わすと、
「これは、おいでなさんせ。わたくしは力三という者で、これから薬園のお仕事をさせていただきます。」
 四十がらみの、年かさの中間が、かぶっていた手ぬぐいを取っであいさつした。
「こちらが忠兵衛です。この男は浜吉、−−この三人で、お手つだいをさせていただきます。」
 忠兵衛は三十歳前後、浜吉は二十歳すぎに見えた。みんな、ていねいにあいさつした。
「こちらが白石嘉次郎どの、この薬園の主任じゃ。こちらが池田玄丈くん、嘉次郎どのの助手を勤める。ふたりとも年はわかいが、当藩での前途有望な本草学者じゃ。みな、よく力をあわせて忠勤をはげむように−−。」
 彦兵衛がはじめて嘉次郎を「どの」づけにして、もったいぶった紹介をしてくれた。
「よろしくたのみます。」
 嘉次郎は、気軽にあいさつした。玄人は、ペこりと頭をさげただけであった。
 薬園に隣接(りんせつ)して長屋がたちはじめているのは、嘉次郎たちの宿舎だった。それができあがるまで、嘉次郎は彦兵衛の門長屋から、女丈は自宅から通勤することになった。
 準備にかかりきって、その年の秋は終わった。正月がせまったころ、やっと長屋がたちあがった。一室を事務所にして、嘉次郎はすぐに移転した。玄丈は通勤してもよいわけだが、嘉次郎ひとりだけを住まわせるのが気の毒なのか、自発的に移ってきた。
 いちばんわかい中間(ちゅうげん)の浜吉が、ひとり者の気安さで、台所兼用の一室に移ってきた。
「お正月は、志度に帰られますか?」
 押しつまったある日、玄丈が聞いた。
「いや、このいそがしいのに、ことしは帰れまい。」
「さようですか。ほんなら元日も仕事ですか?」
「まあ元日一日ぐらいは休むか。」
「では、わたしの家に大(おお)みそかからとまりがけできてくれませんか。おぞうにを祝うて、父や兄に、いろいろ話してやってください。医者というても、学問のない、いなかの町医者ですから、白石さんのお話は、きっとためになります。」
 ふだん無口な玄丈が、熱心にすすめた。いくらなんでも、お正月に浜吉のへたな手料理では、嘉次郎もわびしかろうと思ったのであろう。
「うん。−−そんなら、そうしょうか。」
 玄丈の家は、お城からまっすぐ南にあたる、繁華(はんか)な商店街の裏町にあった。大みそかの夜、ふたりが行くと、町医者だから格式ばった構えではなかったが、家も広く調度もいきとどいていて、嘉次郎の目には、同じ医者でも、下級武士を相手の三好賛道よりは、富裕(ふゆう)な町人を相手にするだけに、ずっと裕福なように感しられた。

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 玄丈の父は四十をすこし出たぐらい、玄丈ににて小柄だが、太った福々しい人だった。兄は二十二、三歳で、背の高い色白の好男子である。父の代診(だいしん)や助手をしている。母は四十歳ぐらいで、色白でうりざね顔(がお)である。いまでも美しいが、わかいときにはずいぶん美人だったのだろうと思わせた。そういえばこの家では、玄丈だけが父ににていて、妹のゆきというのも、母や兄と同じく、背のすらりとした色白の美人であった。玄丈とは年子だそうで、明けると十六歳になると母親がいった。
「おいでなさいませ。」
 ゆきは、しとやかにあいさつして、嘉次郎がぬぎすてた羽織(はおり)やはかまをたたんでくれた。
 母が、
「おふろをお召しになって、着物は全部着替えてください。うちのあにさんも背が高いので、あなたさんのおからだにも、あにさんの着物ならまにあいますやろ。」
「いや、それではあまりに……。」
 嘉次郎が遠慮しても、母はきがなかった。
 長い薬草園での篭城で、嘉次郎の着物はずいぶんよごれていた。ふろからあがってみると、下着から着物、羽織まで、すっくり新しいのがそろえてあった。
 嘉次郎は不安だった。あす元日の朝は、三好先生の家へ年賀に行こうと思っていたから、玄丈の兄の着物ではこまるのだった。嘉次郎は足軽(あしがる)のせがれだから、身分は足軽クラスだが、それでも侍と町家とではちがうのだった。
(どうしよう?こまったなあ−−。)
 しかし、ほんとうはこまることはなかったのだ。別室では、母とゆきのふたりが、湯をわかして、嘉次郎の着物やはかまのよごれをふいたり、敷きのし(きりを吹き、おもしをかけて、しわを伸ばすこと)をしたり、まるでわが子を晴れの旅にでも出すかのように、夜がふげるのもわすれて、せっせと手入れにはげんでいたのだ。
(まあ、いいわい。あすはあすで、また、あすの風が吹くわい。)
 嘉次郎はのんきなところがあるので、玄丈の父や兄と酒をくみかわしているうちにいつかわすれて、寝床にはいるとすぐ眠ってしまった。
 朝、目がさめると、よほどねぼうしたとみえて、障子には明るい日ざしがいっばいあたっていた。ふとんに起きなおって大きなあくびをしていると、
「お早うございます。」
 ふすまのむこうから、澄んだきれいなわかい娘の声が聞こえた。ゆきであった。
「ああ、お早う。」
 あわてて羽織をひっかけていると、そのままふすまのむこうから、
「あのう、お羽織とおはかまは、ここに置いときますから……。うちにおいでるあいだは、ゆうぺのあにさんのを着ておいでなさって、外出のときには、羽織とはかまだけ、どうぞ……。」

−79−


「ああ、すみません。」
 嘉次郎は感心した。なんともいきとどいたはからいだった。同時に、昨夜不安がっていた自分を、ひそかに恥ずかしく思った。
 元旦のあいさつやら、祝いぜんやらとすませてから、嘉次郎は、玄丈を連れて外出した。岩清尾八幡(いわせおはちまん)におまいりしてから、玄丈もいっしょに、三好賛道をたずねた。
「おう、これは白石さん、ごりっばになって……。あけましておめでとうございます。」
 玄関(げんかん)に出てきた又平が、黒いほおに笑いのしわをよせて、しかしていねいにいった。
「あけましてーー。」
 嘉次郎も、ていねいにあいさつしてから、
「又平さんは、おうちへは帰らないの?」
 ふしぎに思ってたずねた。
「いや、それがのう……、しつは先生がおかぜで熱が高うて…・わしが代診(だいしんや。」
 それから、
「けんど、たよりない代診や。」
 とつけ加えて、苦笑した。
「それはいかん、お見舞いしょう。」
 玄丈を玄関に残して、嘉次郎がかつて知った居間に上がっていくと、賛道はまっかな顔をして、うんうんうなりながら寝ていた。呼吸もずいぶんあらい。
 その横では、徹夜(てつや)の看護(かんご)をつづけているのか、妻女が目をまっかにしてすわっていた。
「先生、奥さま、おめでとうをいわねばなりませんが、それよりも、いかがですか? だいぶお悪いんですか?」
「おう、嘉次郎どのか−−。」
 賛道は目をあけたが、その目には力がなかった。
「紺屋(こんや)の白(しろ)ばかまというが……医者のくせに正月早々から寝こんでしもうてのう、だらしのないことじゃ。」
「どうしたのですか? お薬は?」
「うん。悪いかぜがはやっているじゃろう。わしも往診でいそがしうて、氷雨の日にぬれて帰ったことがあったのじゃ。それでやられてしもうて……。」
 賛道は笑ったようだが、笑いはほおにしわを作っただけで、声にはならなかった。妻女はただ、おろおろしているだけのようである。

−80−


(これはいかん!)
 嘉次郎はがくぜんとした。熱といい、呼吸(こきゅう)といい、また話すときに見た舌の白こけといい、かぜを悪くして、いまでいう肺炎(はいえん)を起こしているのである。


 嘉次郎は玄関に走り出ると、玄丈を呼んだ。
「先に帰っていてくれ。わしは残る。先生がたいへんなんじゃ。あすも仕事は休むかもしれん!」
 さけんでおいて、いそいで薬べやに引きかえそうとした。
「わたしもおります!」
 玄丈が、そのうしろ姿に呼びかけた。
「お薬でもなんでも、わたしも手つだいます!」
「そうか、ではたのむ。」
 ふたりが薬べやにはいろうとすると、又平が飛んできた。
「そんなに悪いんかいな?」
「悪い。−−お薬はなにをさしあげていたんや?」
「麻黄湯(まおうとう)や。3、4日まえから寒けがする、熱があるから麻黄湯をくれというて、先生がおっしやったんや。」
「そうかもしれんが、それはご3日もまえの話や。いまは容態(ようだい)がかわっとるやないか。しっかりしてくれんとこまる!」
 思わずつっけんどんに、嘉次郎はいった。いまさら又平をとがめる気はすこしもないのだが、師の大病というのに、こうたよりないのではと、つい腹がたつ。
「熱はつづいとるんやろ?」
「うん。」
「胸が痛い、息が苦しい、といわれなんだか? 便秘(べんぴ)になっとるんやないか?」
「そういうと2、3日まえから、通しがないようや。」
「やっばりふつうのかぜやない。又さん、これはたいへんだぞ。−−玄丈、小柴故湯(しょうさいことう)を作ってくれ。いそいで……。」
「へえ。」

−81−


 玄丈はかいがいしく薬草を取り出すと、目方をはかり調合(ちょうごう)をはじめた。医者の子であり、本草学の素養(そよう)もあるうえに、日数こそすくないが、嘉次郎にせまるほどの頭のさえた少年だった。又平のように、のろのろはしない。 麻黄湯というのは−−かぜの熱や悪感(おかん)にはよくきく薬である。しかし、病状が進んで肺炎の状態になると、小柴故湯とか大柴故湯とか、または桃核承気湯(とうかくじょうきとう)とか、四逆湯(しぎゃくとう)とかいった、もっとはげしい薬でなくてはならない。
 くわしい処方(しょほう)は省略するが、小柴故湯は各種の解熱・鎮痛剤のほかに、朝鮮人参なども処方されているし、桃核承気湯は芒硝(ぼうしょう)といって、鉱物性の硫化ナトリウムまで処方されている。また四逆湯は『逆』の字が示すとおり、付子(ぶし:とりかぶと)という劇薬までふくんでいる重患者用のはげしい薬である。いずれにしてもいまの症状は、温和な薬でなく、ずっとはげしい薬を必要とする段階にきていることを、嘉次郎は又平に、もっと早く気づいてもらいたかったのだ。
「玄丈、お薬ができたら、お正月なのに気の毒じゃが、お父上に往診をたのんでもらえんじゃろうか。」
「へえ。すぐに、そういうてきます。」
「きてもらえるじゃろか?」
 嘉次郎は、さすがに遠慮そうであった。
「きますとも−−。」

 賛道に小柴故湯(しょうさいことう)を飲ませてから、嘉次郎は祈るような思いで、その回復を待った。
 肺炎双球菌(はいえんそうきゅうきん)という細菌から起こるクループ性肺炎には、ペニシリンそのほかの抗生物質(こうせいぶっしつ)が発見されるまでは、積極的な治療法はなにもなかった。患者の生命は、体力と薬との総和力が細菌の攻勢に耐え得るかどうか、という点にのみかかっていた。いわば天運を待つのみであった。

−82−


−−しかし、そんな期待のあいだにも、賛道は急速に衰弱を加えていく。玄丈が走っていって、まもなく父の玄岳を迎えてきたが、玄岳も賛道の容態に、暗い表情をした。「どうでしょう?」
 嘉次郎が問いかけても、首をひねるばかりで、答えなかった。
 手遅れであり、絶望なのであった。三好賛道はその夜半、妻女と愛弟子(まなでし)の嘉次郎や又平と、またきゅうに主治医にされた玄岳父子の見守る中で、あっけなく43年の生涯(しょうがい)をとじてしまった。
 泣きくずれる妻女のそばで、嘉次郎もなみだにむせんだ。
 人生というものが嘉次郎にもたらした、それは最初の悲劇であった。あまりにも順調に進んできた嘉次郎に、それは人生というものが、ときには悲惨であり、ときにはなみだそのものでもあることを、最初に告げた警鐘(けいしょう)であった。
「惜しいことをしたものじゃ。もう十年生きておったら、讃岐一番の名医になり、本草学者にもなったものをのう−−。」
 翌日弔問(ちょうもん)にきた真田彦兵衛が、仏前に拝礼してからしみじみといった。
 その通夜(つや)から葬儀(そうぎ)のあとまで、嘉次郎には、今はなぎ師の、同じことばばかりが耳に聞こえつづけていた。
「−−嘉次郎よ、すべて実証的に研究せよ。先人(せんじん)の経験と業績は尊いが、うのみにしてはいけない。疑わしきは疑い、すべて事実に即しておまえ自身の学問をせよ。」
「学問とは、今までにわかっていることだけを覚えることではない。真の学問とは、今までにわかっていないことをわからせる、今までに誤って信じられていたことを正していく−−それがほんとうの学問の進歩というものなのじや。」
 立派(りっぱ)な先生だった。いつまでも生きていて、指導してもらいたかったと、なみだにぬれながら嘉次郎は思う。−−けれども、いつまでも泣いているばかりが師にむくいる道でないことをも、嘉次郎は知っていた。
(先生、わたしはきっとやります。藩の薬園をりっぱに育てて、今まで讃岐でできなかったもの、日本でできなかったものを、わたしはきっと生み出してみせます。)
 なみだをかみしめて、嘉次郎は師の霊前に誓うのだった。

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