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人参と人間

 延享4年(1747年)は三好賛道(みよしさんどう)の死に明けたけれども、嘉次郎や玄丈(げんじょう)にとってはすごく活動的な、いそがしい年になった。
 臨時雇(りんじやと)いのおおぜいの百姓を、三人の中間がさしずして、薬草畑のうねやみぞは、正月すぎにはできあがった。
 それから春にかけて、手配してあった各地から、薬草の株や苗(なえ)や種子(しゅし)が、ひきもきらずに送られてくる。
 嘉次郎と玄丈がそれらを分類(ぶんるい)し、記録(きろく)してから、植えつける場所を指定して、中間頭(ちゅうげんがしら)の力三はそれを、場所ごとに分担(ぶんたん)している忠兵衛や浜吉にわたし、自分も一定の場所を分担して、手つだいの百姓たちといっしょに、植えつけたり種子をまいたりする。
 嘉次郎たちは、仕事の段取(だんど)りをつけるだけでなく、さらに発芽(はつが)、成長と、日を追って各薬草の記録を取らなければならない。
 夜は夜で、藩の書庫(しょこ)から真田彦兵衛(さなだひこべい)に借りてもらった『本草綱目(ほんぞうこうもく)』の勉強である。
 梅雨期(ばいうき)は梅雨期で、夏は夏で、それぞれなすべき仕事が山ほどあり、この一年は、ほとんど薬園のあらかたの整備だけで暮れそうだ。
 ときどき、西尾縫殿(ぬい)や真田彦兵衛が、見回りにくる。彦兵衛は苦労人らしく、にこにこ畑の中を見まわって歩く程度だが、縫殿は、
「どうじゃ、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)はまだ植えぬのか? 甘蔗はいつからはしめるのじゃ?」
 殿さまみたいに、気のみじかいことをいう。
「わしから早いめに浪華の蔵屋敷(くらやしき)の留守居(るすい)にたのんでおくぞ。甘蔗も朝鮮人参も、浪華と長崎で商人たちにさがさせれば、なんとか株が手にはいるしやろうから。」
「はい、なにぶんよろしくおねがいします。」
 嘉次郎も玄丈も、ペつにさからうことはない。翌延享5年(1748年)になると、嘉次郎はもう21歳。わかいが堂々たる薬草園の主任である。
 池田玄丈も18歳になって、背丈(せたけ)もだいぶのびてきた。一日(ついたち)と十五日は休みにして、嘉次郎は用事のない日は玄丈の家をおとずれるのだが、ゆきがあいかわらずこまめに、いろいろめんどうをみてくれる。−−そういえば、ゆきもすでに十七歳で、めっきり娘らしくなってきている。

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 その春がすぎようとするころ、西尾椎殿が家老に任ぜられた。縫殿の家老就任(かろうしゅうにん)を機会に、正式に薬園見廻り役が発令されたが、それは横道百太夫(よこみちももだゆう)という、二百石取りの六十近い老人であった。
「嘉次郎、短気を起こしてはならぬぞ。横道どのは悪いお人ではないが、なにぶんにもご老人で、がんこなうえに、お口が悪い。−−さかろうてはならぬぞ。」
「はい、心得ておきます。」
 真田彦兵衛の注意に嘉次郎は神妙に答えたが、じつはおばばさん以外は、嘉次郎は老人はがんこでぎらいだった。自分の知識が時代おくれになっているのにも気づかずに、こだわっていいはることが多いからである。

 家老になってまもないある日、縫殿から嘉次郎に、至急出てこいという使いがあった。いそいでお城に飛んでぺくと縫殿はにこにこと、じょうきげんであった。
「嘉次郎喜ぺ。朝鮮人参の種子(たね)が、浪華から届いたぞ。」
「そうですか。それはなによりうれしいことです。」
「うむ。しかも三升もあるぞ。ところで、どこに植えるのか?」
「はい−−。」
 嘉次郎は、平素の考えを述べようと思った。
「もちろん薬園にも植えようとぞんじますが、三升もございますれば、薬園には一升だげにして、残りはどこか、ほかの場所に植えたいと思います。」
「そうか。どこにわけるのじゃ?」
「はい。しつはそれはまだきめておりませんが……、朝鮮人参はそもそも、寒い朝鮮の山中で育ったものです。それで当国のうち、四国山脈の中の山深い村落一か村と、海辺の高い台地一か所を選び、それと平地である薬草園の三か所にて、試植いたしてはいかがかとぞんじます。」
「なるほど。で、その候補地は、見当はついておるのか?」
「いえ。しかしお殿さまより、かねて国内の僻地(へきち)の、自然生(じねんせい)の薬草を採集せよとのご内命があつたとか、うげたまわっております。薬草園の整備も一段落しておりますので、玄丈と、ほかに中間一、二、それに強力(ごうりき)を連れまして、各地を探索(たんさく)いたしてみとうございます。」
「一石二鳥というのじゃな。それはよい考えじや。わしから横道には申しておこう。すぐにも出発してよいぞ。」

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「はい、ありがとうぞんします。しかし、人参の種子(たね)まきがございますし、それには特別な人参園も作らねばなりません。巡回(じゅんかい)は秋のころになるかと心得ますが……。」
「よいよい。日程(にってい)などはそちにまかせる。」
 嘉次郎は心をはずませて、人参の種子を受け取って薬園に帰ったが、それがさっそく、横道老人の気にさわった。夕方、首太夫は薬園の事務所に顔を出すなり、
「嘉次郎っ!」
 大声でどなった。
「はい、なんでございましょう。」
「そちはきょう、西尾ご老職(家老)と、直取引(じきとりひき)をしたそうじやな。」
「直(じき)取引と申しますと?」
「とぼけるなっ。自分でお城へ参上して、西尾どのから人参の種子を受け取り、国内巡回のことまで定めたというではないかっ。さような出すぎたふるまい、だれがゆるした!」

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「いや、それはご家老さまから、きゆうにお呼び出しがございまして……。」
「だまれっ! ご老職に名をかりて、つべこべと上司に口答えいたすとは、不届(ふとどき)き至極(しごく)なやつ! たとえ西尾ご家老からなんのご沙汰があろうとも、この横道百太夫はまだうけたまわっておらんかったぞ!」
「はい−−。」
「ご老職や、役職の方々との談合は、この横道がいたす。用事があれば拙者にいえ! 今後そのような出すぎたふるまいは、断じてまかりならぬぞ!」
「…………」
「わかったかと申すのに、そちはつんぼか。それとも不服なのか!」
「いいえ、はい、−−わかりました。」
 嘉次郎は、くちぴるをかんだ。

 それから横道百太夫は、くどくどと菜園見廻り役としての自分の権威を語るのだったが、嘉次郎はろくに聞いていなかった。
 嘉次郎は、ただくやしく、情(なさけ)ないばかりだった。この人が薬園見廻り役などというのは、ほんの名目ばかりで、いっさいは現場の嘉次郎たち、専門家に任されているはずであった。自分はその上にゆったりすわって、ただ経費のやりくりの手落ちでもないか、そんなことに気をつけておればよいはずだった。
 もともと横道がそんな職についたのは、老人に適当な職場を与えてあげようという、西尾家老の思いやりから出たことだし、それに西尾の、いわば産業経済大臣といった職責はすこしもかわっていないのだった。その西尾から直接命令を受けたからといって、頭からどなりつけられるのは筋の通らぬ話だった。
 しかし、横道が帰ると、ふくれかえっている嘉次郎に、玄丈が笑っていった。
「白石さん、気にすることはないですよ。あのおことぱは、西尾さまのご命令は承知したが−−と、そういう話じやないですか。今後はこうこうせよという、ご老人の親切な老婆心(ろうばしん)ですよ。」
 この少年、小粒だが腹がすわっている。
 玄丈になだめられて、嘉次郎はあくる朝、とぼげて枝道に報告した。
「−−じつはきのう、西尾さまからご内命がございまして、朝鮮人参を試みに栽培せよとのご沙汰(さた)でございましたが……いかがいたしましょうか?」
「うむ、そうか。」
 百太夫は、きのうのことはまるでわすれてしまったかのように、首をひねって考えるふりをする。
「して、そのほうはどうしたい考えじゃ?」
「はい。−−朝鮮人参の栽培法は、かねて玄丈といっしょに研究してあるのですが……ともかく栽培の適地をさがす必要があります。」
「うむ、適地とはどんなところじゃ?」

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 嘉次郎はばかばかしかったけれど、きのう西尾権殿に話したのと同じことを、もう一度くりかえすしかなかった。百太夫は途中からきげんがよくなって、うむうむとうなずいて聞いている。
 述べながら嘉次郎は、役人とか役所の機構とかいうものは、こまったものだと苦笑していた。でも、その機構の中に住む以上は、いくらかは妥協(だきょう)するしかしかたがないのだった。嘉次郎は、おとなの世界のむずかしさ、いやらしさが、やっとすこしわかった気がした。
 嘉次郎が話し終わると、官太夫は、
「よかろう。そのとおりにいたそう。−−人参の種子(たね)まきも藩内巡回も、そちの考えのとおりでよい。中間も百姓も、そちの思うとおりに使ってよい。さっそくにしたくいたせ−−。」
きのうの西尾家老と同じことをいった。嘉次郎は思わずふき出しそうになったが、やっとこらえて、
「ありがとうございます。」
 頭をさげて礼をいった。

 それからは、ひときわいそがしくなった。
 嘉次郎の研究によると、人参の種子まきば暑い土用(どよう)のころがよいのだった。それまでに、あと時日はいくらもなかった。嘉次郎は玄丈や中間たちをさしずし、百姓たちにも集まってもらって、すぐに人参園のこしらえにとりかかった。
 そのときに嘉次郎たちが行なった朝鮮人参の栽培法というのは−−嘉次郎が科学者平賀源内に育ってからの代表的な著述の一つに『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』というのがある。六巻から成る大部の博物学書だが、その第六巻は付録になっていて、朝鮮人参と甘蔗(かんしゃ)の栽培法が特集されている。すべて源内自身の経験を基礎にして書かれたとことわりがあって、わからぬ点はわからぬと明記してある。
 このときに行なわれた栽培法は、だから『物類品隲』に説かれたところと、ほぼ近かっただろう。その主旨をごく簡単に紹介すると−−。


 まず土質。色の黒い、細かい土がよいから、東京や日光の黒土などが適当だ。黒土のないところでは山の土、やぶの土などを代用する。
 つぎに場所。風通しのよい、湿気のないところを選ぶ。まず土を150センチ程度ほり起こして、四方と底には、だけで作った簀(す:割りだけをあらくあんだむしろ)をいれる。その中ヘ、さきにほり起こした土を高く積んでおくと、雨が降って、自然に平らになる。わざわざ平らにしてはいけない。
 種子まき。種子は土用の署いさかりに、二、三日水にひたしておくと果肉がただれるから、肉を洗い去って核(種子のしん)を取る。それをすぐに、準備しておいた上記の畑地に植える。深さは浅すぎても深すぎても悪く、経験によるほかない。植えたあとは、上へ古いわらをかぶせる。

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 土がかわきすぎると、水をそそぐ。
 人参園は、日光が直接に当たりすぎてはいけないので、外側に高さ三尺(1メートル弱)ほどの柱を立てて、よしずでおおいをする。

 こうしておくと、翌年の春には葉が出る。なかには二、三年たって、はじめて葉の出るものもある。しだいに大きくなって、三年か四年すると、枝の分かれた中央から茎が出て、それに実を結ぶようになる。
 植えてから三年か五年で、秋にほり出して根を取り、これを精製する。十分成育していないものは、もう一度植えて根の成有を待つ。
 『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』に説かれている人参の栽培法は、だいたい以上のようなもので、このときにも嘉次郎たちは、薬園の一角によしず張りの人参園を設けることからはじめた。
「いずれ山間にも移し植えるのだが、いちおうはこの薬園に全部まいておけ。」
 そういって、西尾家老から届けられた三弁の種子は、すべてこの人参園にまかれた。


 人参園作りと種子(たね)まき・水やりなどで、いそがしいうちにその夏は終わって、かたづいたのは秋風が吹きはじめるころであった。改元があって、年号は寛延(かんえん)元年と改められた。

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 嘉次郎は横道百太夫を通して、藩の重役の許可を得て、秋の深まろうとするある日、玄丈や浜吉や、そのほか数人の農家の青年を連れて、讃岐のいなかの村々へ薬草さがしの旅に出た。
 時候(じこう)はよいし、仲間は気心のわかった親しい青年ばかりだし、引率者の嘉次郎にもたのしい旅だった。
 いちめんのたんぼには、黄金色にみのったいねが低く頭をたれていて、その上をあかとんぼの群れが、すいすいと飛びかっている。そこここには、おもしろい形のかかしが立っていて、すずめの群れがたんぼに舞いおりてくると、お百姓が綱を引いて鳴子(なるこ)がガランガランとひびく。すずめの群れは、おどろいて飛びたつが、やがてまた舞いおりてくる。
 一行が通ると、野ら働きの人たちが、はちまきやほおかぶりを取って、ていねいにおじぎをしてくれる。産物や薬草のことを聞くと、親切に教えてくれ、ときにはめずらしい草の群生地に案内までしてくれる。
 なにしろ藩主の内命による調査旅行だから、どこでも粗末にはあつかわない。宿も、寺院や神社にとまったり、ときには庄屋(しょうや)や豪農の家にもとまるが、嘉次郎や玄丈は上客のもてなしだった。
 ある晴れた日のこと、一行は内場(ないば)池という溜池(ためいけ)の堤防に腰をおろして、弁当を食べていた。嘉次郎は、にぎりめしをはおばりながら、古い、水草のいっばいに浮かんだ、よどんだ池の水を見つめていたが、
「玄丈よ、どこへ行っても、讃岐(さぬき)の国にはほんとに池が多いなあ。」
 さも感しいった口調で、横にいる玄丈に声をかけた。
「ほんとにそうですねえ。」
 玄丈も、にぎりめしをつかんだままで答えた。
「なにしろ一口(ひとくち)に、讃岐一国で三万の溜池があるといわれるのだ。まあ、それほどはないと思うが、なんと、こんな山間にまである。」
 嘉次郎が感慨をもらしたのは、むりもないことであった。旅の途中、毎日のようにいくつかの溜池を見るのである。この内場池は、高松から南へ直線距離にして二十余キロ、讃岐山塊(さんかい)の山地にはいったところにあった。高松の西を流れる香東(こうとう)川の、もう源流に近いあたりで、ほとんど阿波(あわ)の国(徳島県)との国境に近い。
「ほんまですね。わたしたちはもう何百もの池を見てぎましたねえ。」
「それというのも、讃岐は日本じゅうでも雨のすくない国で、そのうえに山が浅く、大きな川がないからだ。かんばつを防ぐためには、どうしても溜池がいるわけなのだ。」

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 讃岐の雨量について、参考のために現代の記録を紹介すると、高松気象台の計測による創立以来の年間雨量の平均は1100.7ミリで、これは日本じゅうでいちばん雨量のすくない数字である。ついでに溜池の数をいえば、昭和30年の香川県農林部の精査(せいさ)によると、1万8千6百6もの溜池があった。
「しかし玄丈よ、わたしはふしぎに思えてならないのだが、これらの用水池をつくったのは、いったいだれだろう? それは、そのほとんどが百姓自身かもしれないが、しかし為政者として、もっとも力をつくしたのは、いったいだれだろう?」
 なにをいおうとするのだろうか−−玄丈はだまって嘉次郎の顔を見守った。


「わたしはこのごろ、政治というものが、こわくなるとぎがある。この池を見ていても、それを痛感するのだ。」
 しばらく黙ってうつむいていたが、やがて低い声で、嘉次郎はつぶやくようにいった。
 玄丈には、嘉次郎のことばの意味するところが、わからなかった。政治がこわいとは、どういうことなのだろうか?
「ああ、横道さまやなんかのことですか?」
 ふと思いついて玄丈はいったが、嘉次郎を見ると、むずかしい表情で首を振っている。玄丈は、なにか自分がひどく見当ちがいなことをいった気がして、恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「そんなことではない。いやしかし……、それも一つの現われかもしれない。」
「どんなことでしょうか? 教えてください。」
 不吉な予感がして、玄丈は胸がときどき鳴った。
「こんなことは、だれにも話してはならんぞ。しかし……おとなになってから、ひょっとすると思いあたるときがあるかもしれん。そんなときにはおちついて、しっくりとこの話を思い出すことだ。」
 嘉次郎は老人のように思慮深いまなざしで玄丈を見て、低い小さい声でつづけた。「−−わしは思うんやが、弘法大師(空海)の用水池つくりの伝説などはべつとして、讃岐でその構築(こうちく)にもっとも力を注いだ領主のひとりは、いまの松平家の前の領主である生駒高俊(いこまたかとし)公やったと思う。むろん、それによって直接の恩恵をこうむったのは、一般の百姓たちなんだ。
−−いわば生駒高俊公は、讃岐にもっとも善政をしいた殿さまのひとりといえるだろう。」
 玄丈は、だまって小さくうなずいた。
「その生駒氏は……幕府から藩内不統一をとがめられて、流罪(るざい)同様に出羽(でわ)の国(秋田県)矢島(やじま)へ、たった一万石の殿さまにされて移された−−。玄丈、おまえは、そのほんまの理由は、なんやったと思うか?」

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「わかりません。」
「しつは……わしも……わからん。」
 嘉次郎は、ぽつりといった。またしばらくだまっていたが、やがてことばをついだ。
「わからんが……表面の理由が、あるいはほんとうの理由だったのかもしれんが……けんど、こんな推理もできる。−−えいか、生駒家は外様(とざま)大名やったんや。」
 玄丈は、まただまってうなずいた。外様大名とは将軍家である徳川氏の一族や、昔からの家臣でなく、豊臣氏と戦った関ケ原の戦いのときにはしめて徳川方に味方したものや、あるいはそのときには豊臣方についていて、戦後徳川氏に服した大名のことである。
「その四代めの高俊は、有名な西嶋八兵衛(にしじまやへい)という築城や土木の名人を、伊勢(いせ)の国から招いて、満農地(まんのうのいけ)や亀起池をはじめ、百に近い大小の溜池を改造したり、新造したりした。また各地に新田を開いたり、岩清尾(いわせお)山の南で二本に分かれて、一本は高松のほうへ流れていた香東川の、その東側の一本をせきとめて、高松城下を水の災難から救い、現在のように西の方への流れ一本にあらためたりした。−−むしろ名君ではなかったかと、わしは思うのだ。」


「それがどうして……?」
玄丈が、つばをのみ、目を輝かせた。
「家老たちがけんかして、一方が幕府へ訴えたんだ。それで藩内不統一の罪に間われた。けんどそんなことは、幕府がやらせようと思えば、いつでもやらせられる謀略(ぼうりゃく)かもしれん。原因はべつにあって、そのほうが真の原因ではないかと、わしは思うんや。」
「それはなんですか?」
「えいか、讃岐生駒家(さぬきいこまけ)の初代は生駒親正(ちかまさ)というて、もと織田信長(おだのぶなが)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えた武将やった。信長がまだ尾張の国だけの殿様やったころからの部下で、いろんな戦争に、いつも大きな手柄を立てている。秀吉になってからも功績は重なり、一時は秀吉から、豊臣という姓までもろうたほどの人や。各地で大名になっとったが、天正15年(1578年)に讃岐の領主になった。」
「…………」
「ところが秀吉の死後、関ケ原の戦いが起こったときに、自分は病気というてひきこもり、長男の一正を徳川方に味方させた。その一方、一正の子の正俊には、豊臣方につかせて丹後の国を攻めさせた。戦いが終わってから、あれは家臣がかってにしたことで、まことに申しわけないと親王は徳川氏にわびて、高野山に上(のぼ)って坊主になった。それで正俊はゆるされて父の跡を継いだし、親王自身もやがて高松に帰って、玉藻(たまも)城内で天寿をおえている。−−しかし、四代めの高俊の代になって、基礎の固まった徳川幕府に、ばっさりやられてしまうわけや。」
「そうですか。でも……高俊公が名君で産業を開発して国を富ませれば、間接には幕府へも忠義になるんやないですか?」

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「それが……、そうはいかんものらしい。」
 嘉次郎は、やっとえがおを見せた。それは苦い笑いだったけれど、やはりえがおにはちがいなかった。
「わたしもこれまではそう思うとった。−−さきほどはおまえに指摘(してき)されて、とっさに否定したことやが、横道さんのような人につきおうてみると、やっぱり権力のこわさ、得手勝手(えてかって)さというものを考えるようになった。−−高俊公が名君であればあるほど、讃岐の国が富めば富むほど、幕府はけむたかったのかもしれん。それに、讃岐の国は、九州(きゅうしゅう)や中国と近畿(きんき)とのまん中にたつ要地やろ。強い外様大名を置いとくのはあぶないので、幕府はなんとか親藩(しんぱん)と置きかえとうて、落ち度さがしにうのめたかの目やったのかもしれん。」

「なるほど、そうですか。」
 玄丈は、からだのふるえるようなおそろしい物語を聞いた気がした。
「わしはこの池の、古い、よどんだ水を見とるうちに、ふとそんなことを考えて、おそろしうなったんや。身分の低いわしなんかが、あんまり大きな仕事をしすぎては……どんな憎しみを愛けるかと……。」

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「それは思いすごしやないですか!」
 思わず玄丈は、大声でさけんだ。
「いまは平和な時代です。産業がだいじです。りっぱな学者は、かならずだいじにされますよ!」
「そうや。」
 きゅうに元気に、嘉次郎は乱暴にいった。
「だから、やらんというんやない。わしはやる。断じてやる! わしやって大名の遠い孫や。どんな迫害があっても、絶対にやってみせる! けんど、そのような迫害があり得るということを、わしは胸にきざんでおこうと思うのや!」

 しかし、嘉次郎がそんな興奮(こうふん)を見せたのは、そのとき一度きりだった。
 玄丈も、わすれたように、それについてはいっさい触れなかった。
 旅はたのしかったし、薬草もたくさん採集できた。二十日ほどで予定のコースを踏硬(とうは)して、一同は心をはずませて高松へ帰ったのだが、るす中にたいへんなことが起こっていて、嘉次郎はあいさつもしないうちに、いきなり横道百太夫からどなりつけられた。
「嘉次郎、これは何事じや。殿さまからおあずかりした、たいせつな人参をねすまれるとは!」
「はあ? なんですか、どうしたのですか?」
「どうしたのかとは何事じゃ! 昨夜、薬園にどろぼうがはいって、人参園があらされたのを、おまえは知らんのか!」
「はい、ただいま帰り着いたばかりで……。なにぶん、旅行中でるすだったものですから……。」
「いいわけはゆるさん。るすであろうとなかろうと、薬園の現場は、すべて主任である、おまえの責任であろうが!」
「はい−−。」
「ならば、なぜぬすまれぬように手だてをいたしておかぬ。」
「あいすみません。力三に申しつけて、十分見回りをするように、いっておいたのですが……。」
「その力三の手柄で、一部をあらされただけで、賊は逃げたということじゃが、だいたい賊を近よらせること自体が、おまえのゆだんじゃ。」
「はい。」
「殿の薬園に賊にはいられるということは、殿の御座所に、敵に乱入されたも同じことじゃ! 切腹しておわびしなさい。」
「ええっ、切腹? まさか!」
「まさか、とはなんじゃ。そもそも武士の心がまえというものはじゃ……。」
 たっぷり一時間もお説教されて、嘉次郎は、すっかり頭にきてしまった。

−94−


 いくらことばのあやにしても、切腹せよはひどすぎた。
 やっとお説教から解放されると、嘉次郎は玄支を連れて、すぐに現場に飛んでいった。


(横道さんが、あんなにおこるのだから、朝鮮人参の種子(たね)が、ほとんどぬすまれてしまったのかもしれない。)
 自分はるすだったのだから、しかたのないことではあるし、だいいち、薬園にどろぼうがはいるなどということは、考えてみたこともなかった。
 しかし、−−現実に賊にはいられたとなると、やはり、自分の考えがあまかったことは、反省しないわけにはいかない。これは、なんとか方法を講じなければ−−と、嘉次郎は思った。
「ああ、白石さん、お帰りなさい。」
 かけつけた嘉次郎を見て、力三が、かぶっていた手ぬぐいを取って、小腰をかがめた。
「どろぼうがはいったんやって?人参の種子は、ようけ盗(ぬす)まれたんやろか?」
 嘉次郎が、せきこんで聞く。
「いえ、なんにも。種子は一つもぬすまれとらんようです。」
「ほんなら、どういうわけやろ?」
「なにか、たとえば、人参にしてもだいこんにしても、この囲いの中には、株が植わっとると思うたんやないでしょうか。種子とは知らなんだのでしょう。−−手をつっこんで、かき回しています。」
「それだけなんか?」
「ええ。昨夜、私が見回りに出て、このあたりまでくると、人かげがあるので、えへんと、せきばらいしましたところ、そのまま逃げてしもうたんです。−−けさ見ますと、人参園のわらが散乱しとって、その下の土も一部分かき回されとったので、さっそく、見回りにこられた横道さんにご報告して、いま、こうして植え直したところです。」
「種子は、どんな状態やった?」
「ええ、順調に発芽をはじめとるようです。全部ていねいに、もとのとおりに植え直しときました。」
「それはありがとう。」
 せっかく植え直したものを、もう一度ほり出して見るわけにもいかないので、そのままにすませたが、嘉次郎は、ふしぎでならなかった。

−95−


 その夜、会事が終わってから、自分のへやで、じっと考えこんでいると、玄丈がやってきた。
「白石さん、どうして人参の種子をぬすもうとしたんでしょう?なんの役にもたたんのに。どんな男でしょうねえ。」
「うん。わしもそれを考えとるんや。なんとなく、わかってきたように思えるんやが……。」
「そうですか。どういうわけです?」
「うん。まだ、はっきりしたことはいえん。しばらく待ってくれ。とにかくわしは、今夜から自分で見回りをしてみる。」
「そんなら、わたしもごいっしょに−−。」
「いや、それほどのことはない。昼の仕事もいそがしいんやし。おまえは寝とれ。」
 玄丈をさがらせてから、嘉次郎は、なおも考えこんでいたが、やがて夜がふけると、木剣を一本持ってへやを出た。
 人参園から2、30メートル離れたところに、古いまつの木が三本ほど残っていて、その根もとに手ごろな石があった。嘉次郎はその石に腰をおろして、じっと息をひそめて人参園のほうを監視していた。
 かまのような月が、山にかくれようとするところで、まもなく、あたりは暗くなる−−。


 と、嘉次郎たちの長屋のある方向とは反対の、西芳寺(さいほうじ)の築地(つきじ)のかげから、一つの黒いかげが姿を現わした。
 かげはからだをかがめて、そろりそろりと薬園に近づいてくる。
 薬園のはずれのさくまでくると、かげはさくに手をかけて、周囲を念入りに見まわした。それから、さくによじのぼって、薬園の中に飛びおりた。野ばかまをはいていて、脇差を一本、さしているようだ。
 嘉次郎は動かない。木剣を両手でついて、いっそうからだをかがめて、じっとかげの動きを見つめている。細い月は、もう山にしずんで、あたりはまっくらである。
 やがてかげは、はうようにして、しだいに人参園に近づく。嘉次郎はやっと腰をあげて、背高くのびた除虫菊(じょちゅうぎく)に身をかくしながら、かげの背後から迫っていった。
 かげが、人参園の囲いの中に、その姿を没しようとしたときだった。うしろから、
「待てっ!」
 嘉次郎が、低いがするどい声をかけた。
「あっ!」
 かげはおどろいたようである。低い叫び声をあげると、人参園の囲いのむこう側に飛び出した。
「はい。」

−96−


「待てっ! だれや!」
 あいかわらず、嘉次部は低声である。しかし、人の足をすくませるような、するどい気合いがこもっている。かげを追って、人参園のまわりを大またに、かげと3メートルばかりの場所に飛んだ。
「武士の情(なさ)け、見のがしてくだされ!」
かげが、低い声で、うなるようにいった。
「事情によっては見のがす。しかしわたしは、この薬園の主任や。薬園をあらされて、だまってはおられぬ。名を申せ!」
「ご容赦っ!」
 泣くような声で、かげはさけぶと、抜き討ちに嘉次郎の足をはらってきた。
「うぬっ!」

−97−


 嘉次郎は飛びのいて、斬りつけた相手の刀を流すと、木剣を下段にかまえた。もう一度、かげの刀が太ももをねらってくるのを、嘉次郎は木剣ではらいのけた。
 嘉次郎は、とっさに見抜いた。かげには、殺意はないようだった。顔を見られてはこまるので、嘉次郎の足を傷つけて、そのすきに逃げようという戦法のようである。
 しかし、闘争がつづくと、敵の考えも、どのようにかわるかわからない。嘉次郎は慎重(しんちょう)に、こんどは木剣を、正眼(せいがん)にかまえた。
 嘉次郎は、剣術には、かなりの自信があった。少年のころから志度で松岡春房に学んできたし、三好賛道の家にいたあいだも、ずうっと道場に通っていた。字間が主目的で、剣術家になるつもりはなかったが、それでも目録(もくろく)は受けており、専念すれば、免許皆伝(めんきょかいでん)にもなれる腕前を持っていた。
(老人のようやな。それに、恐れるほどの腕前ではない。)
 余裕をもって、嘉次郎は対していた。
 かけは、じりじりと、さくのほうへ後退する。それを、じりじりと、嘉次郎の木剣がつめていく。
 かけは、もはや尋常では逃げられないと、覚悟したようである。暗い中にも、きゅうに刀の動きに、殺気がみなぎってきた。
「ご容赦っ!」
 も一度さげぶと、かけは全身の力で、真っ正面から嘉次郎に斬りつけてきた。その刀を、嘉次郎は木剣で右にはらうと、間髪を入れず、かげの右の小手に強い一撃を入れた。
「うっ!」
 かげは、刀を藩とした。すばやく一荒次郎は、かげに組みついた。


 組みつかれると、かげはたあいがなかった。たちまち枯れ木のように投げ飛ばされ、組みしかれてしまった。黒い布で、かげはほおかぶりをしていた。その布を、嘉次郎はばき取った。
「あっ、おまえは!」
 嘉次郎は、おどろいてさけんだ。
「おゆるしください!」

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 かげの全身からは、がっくりと力が抜けて、どろのついた両手で顔をおおった。
「おまえは、−−おまはんは、吉井さんやないか。どうして、こんなことを?」
 嘉次郎は、かげの手を取って、助け起こした。かげは足軽(あしがる)の青井弥兵衛だったのだ。
「申しわけありませぬ−−。」
 もう五十を過きているのだろう、やせた小柄な吉井弥兵衛は、ぐったりその場にすわりこんで、ぜいぜい息をはずませている。
「人参が、−−朝鮮人参がほしかったんですね?」
 弥兵衛の衣服の土をはらってやりながら、いまはやさしく、嘉次郎はたずねた。
「はい。−−助太郎のやつが……。」
「助太郎さん、まだ悪いんですか?」
「はい−−。」
 弥兵衛は、ゴホン、ゴホンとせきをした。
「あんたは、ようしてくれましたが……また三好先生も、貧しいわたしたちに同情して、いろいろ、ようしてくれましたが……、あんたはこちらへ移られるし、三好先生は、なくなられるし……。」
「そうやったねえ。それで……容態は?」
「はい。もうあれから、二年も寝たり起きたりで……、それが、この夏の暑さから、きゅうに悪うなりまして……せめて朝鮮人参でも飲ませてやれたらと……親のばかさで、つい……悪いこととは知りながら……。」
「そうでしたか……。」
 推測(すいそく)したとおりであった。嘉次郎は、沈痛にうなずいた。−−世の中には、武士道(ぶしどう)の忠節(ちゅうせつ)のといっていばりかえってさえいればすむ横道のような人もおれば、薬にもならぬ人参の種子などを、命がけでぬすみにくるしかない、貧しい気の毒な人もいる!
「それは……なんとかせんと……。」
 つぶやいたが、ふと、人参園のむこう側を見やって、
「玄丈。」
 こんどは大きな声で呼んだ。
「はい。」
 人参園のむこうのやみから、池田玄丈が、木剣をさげて現われた。

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 玄丈が、嘉次郎の身を案じて、いましがたかげつけてきたのは、嘉次郎は気づいていた。しかし玄丈は、事の意外な発展に、顔を出しかねてかくれていたのだろう。
「話はいま、おまはんも聞いたとおりや。今夜のことは、だれにも話さずに−−どうやろう、助太郎どのを、おまはんの父上にたのんでやってはもらえまいか?」
「お安いことです。」
 玄丈は笑って、うれしそうに答えた。
「白石さまのたのみなら、父も母も、なんでも聞きます。ましてや人助けです。」
「けんど……いま聞いたやろが、金はあまりないんやぞ。」
「医(い)は仁術(にんじゅつ)といいます。父は町医者ですが、そのくらいのことは心得ています。」
「そうか、すまんのう。」
 玄丈には口どめする必要もなかった。気の毒な弥兵衛を、嘉次郎は、かえって激励して帰らせた。弥兵衛は、泣きながら厚意に感謝して、やみの中に、そのさびしげな姿を消していった。

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