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先祖の名まえ

 弥兵衛の事件があってから、嘉次郎はなにか考えにふけっていたが、あるとき玄丈を呼んでいった。
「玄丈、わしはこの薬園を、移転せねばならんと思うんやが……。」
「なぜですか?」
「ここは、あけっぱなしの山ふもとや。いまはまだたいしたものはないが、いよいよ朝鮮人参の栽培が始まったし、来年からは、清国やオランダから輸入の薬草も試作する予定や。それなのに、ここは暴徒や盗難に対してきわめて弱い。いくら見回りを厳重にしても、やはり防ぎきれまい。」
「それはそうですね。」
「そのうえに、悪いというほどではないが、水の使も多少ようない。−−このお城下に、盗難に対しては絶対に安全で、広くて、日当たりも風通しもよく、そのうえかわいた土地もあれば、水のいる植物には、いくらでも水をやることもできるという理想的な場所がある。」
「ほほう、どこでしょう?」
 玄丈は、目を輝かせた。
「栗林(りつりん)の、殿さまのご別邸のお庭だ。」
「ええっ、ご別邸を借りるんですか! そんなことが、できるでしょうか!」
 玄丈は、目をまるくした。
「おどろくことはあるまい。世の中には、やってやれんことはあるまい。そのうえ、御苑(ぎょえん)の成り立ちを考えれば、わしはお殿さまにおねがいさえすれば、きっと開ぎとどけてくださると思う。」
「そうでしょうか?」
 玄丈はなおもおどろいていたが、嘉次郎はじゅんじゅんと説いてきかせた。
 −−栗林(りつりん)公園は、日本の三つの名園の一つとして昔から有名である。現在では県立公園になっており、また文化財保護法による『特別名勝』となっているが、当時は高松藩主松平家の別邸であった。
 この名園の成立については、いくつかの説があるが、一般には、戦国時代の同地の豪族(ごうぞく)、佐藤氏によってはじめて営(いとな)まれたものとされている。高松市街の南郊にあって、東に面し、うしろ(西側)には紫雲山という200メートルほどの美しい山をひかえて、庭園だけでなく、全般的にもたいへんけしきのいいところだ。天正のころ、さきにも述べた生駒氏が讃岐の領主になってくると、佐藤氏もこれに仕えたので、この庭園は生駒家のものとなった。

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 これもさぎに述べたことだが、生駒高俊(いこまたかとし)が香東(こうとう)川を岩瀞尾(いわせお)山の南でせぎとめて、西の流れ一本につけかえたので、もと香東川の東の分流が流れていた栗林のあたりは、豊富な伏流水(ふくりゅうすい)びある平地になった。高俊はこの伏流水をうまく利用して、栗林の庭園を広げて、中国の湖などになぞらえた、池の多いりっぱな庭園にしあげたのである。
 生駒氏が奥州に移されて、そのあとに封(ふう)ぜられた水戸頼房(よりふさ)の長男である高松松平家(まつだいらけ)の藩祖(はんそ)・頼重(よりしげ)もまた、この名園を自分の別邸にした。そして、隠居(いんきょ)するときに『桧(ひのき)御殿』という建物を建てて、移り住んだ。
 二代頼常(よりつね)、三代頼豊(よりとよ)の時代は、かんばつや洪水(こうずい)が続いて難民が出ると、その失業対策事業として粟林庭園の池さらえや築山(つきやま)の工事、木石(ぼくせき)の運搬などをさせて、金や食物を与えた。
 こうして現在でいう『ニコヨン』の労力で、一方では社会政策的に、また一方では文化的に、天下の名園が着着と完成されたのだった。
 −−嘉次郎の指摘するのは、その社会政策的な面であった。
「わかるだろう玄丈。そういうわけだから、領民のことと産業振興のことを特にお心にかけていられる頼恭(よりたか)公は、栗林のお庭の一部に薬園をもうけることを、お許しくださると思うのだ。」
「はい、わかりました。ですが横道さまにおねがいするのですか?」
「いや、このさいは真田(さなだ)さま、西尾さまに直訴(じきそ)だ。あの石頭の老人には、わしもこりごりしとる。−−しかし顔をつぶさんように、西尾さまのご発意ということにしてもらおうと思う。」
「それがいいですよ。こうなると、あのどろぼうも―−。」
 かえって役にたった−−といおうとして、玄丈はあわてて口をつぐんだ。弥兵衛のことは、ふたりきりの秘密で、横道には、賊(ぞく)は二度と現われないということにしてあるのだ。
「それではわしは、きょうは真田さまのところへ行ってくる。」
 嘉次郎がどんなぐあいに真田彦兵衛を説いたのか、彦兵衛がどんなぐあいに西尾権殿(ぬい)に取りついだのか、また縫殿が、どんなぐあいにして頼恭(よりたか)を動かしたのか、ともかくも、一か月ほどたったある日、横道百太夫がやってきて、にこにことつぎのようなことをいった。

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「たいへんなことになったぞ。お殿さまのお申しつけで、薬園の儀(ぎ)はたいせつなることゆえ、栗林(りつりん)のお庭の中へ移せとのおおせじゃ。−−恐れ多いことじゃ。そちたちの光栄も、これにすぎるものはないぞ。いっそう丹精(たんせい)して、忠勤にはげめよとのおことばじゃ。」
「ははっ!」
 ふたりは平伏して、ありがたく礼を申し述べたが、百太夫が帰ってしまうと、
「うわっはっは、−−うまくいったなあ玄丈。」
「ふっふっふ、うまくいきましたなあ白石さん。」
 顔を見合わせて、笑いころげたのである。
「しかし玄丈、笑うてばかりはおられんぞ。移転のしたくもあるし、そのうえ、栗林のお庭に移転すると、家中(かちゅう)の重臣たちの目も多くなる。あるいはお殿さまにしきじきに、お目にとまることもあるかもしれん。これはいままでよりも、ずっとがんばって働かにゃならんぞ。」
「はい。」
 嘉次郎はすぐに玄丈を走らせて、力三たち中間(ちゅうげん)を呼び集めて、移転の旨を伝え、段取りについて相談した。
「いちどに移るわけにはまいりますまい。」
 力三がいった。
「植え替えには、それぞれ種類によって季節がございます。さっそくに美林のお庭のほうの薬園を整えられまして、順次移していくがよいかと思います。」
「そうだなあ。そういえば一年がかりか。」
「一年はいりますまいが、来年の梅雨(つゆ)どきまで、半年あまりはかかりましょうな。」
「うん、気長にやろう。まず栗林のほうの場所をきめてもろうて、畑作りにとりかかろう。−−人参園も、来春の発芽を待って、地方の公園にも移そうと思うていたところだ。ちょうどええ。」


 横道百太夫(よこみちももだゆう)を通じて願い出て、嘉次郎は係りの役人の案内で、栗林(りつりん)のご別邸を見せてもらった。横道のほか真田彦兵衛(さなだひこべえ)もきてくれた。
 庭園はたいそう広かった。全部では二十三万坪(つぼ)(75ヘクタール)もあるそうで、平地だけでも四万九千坪(16へタタール)近くもあるという。南北に細長い地形だった。

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 南庭(なんてい)と北庭(ほくてい)に分かれていて、南庭には中国の名勝にちなんで北湖(ほっこ)・南湖(なんこ)・西湖(さいこ)という名の三つの大きな池があり、、それぞれいくつかの島があり、池と池とは無数の小流でつながれて、美しい橋がかかっていた。そこここにいくつかの茶室があり、大きな石が置かれ、手入れのいきとどいたまつなどが、いちめんに茂っていた。
 北園はいちめんの大きな池で、殿さまのかものお狩り場だということだった。
「のう嘉次郎、奥まった地勢といい、水の便といい、このあたりがよくはないか?」
 彦兵衛がさし示したのは、門をはいって南園をまっすぐ西に行きあたった、梅林のある付近だった。庭園全体としては、長い南北のほぼまん中にあたる。
「ここですか?こんな晴れがましい場所にしていいのですか?」
 嘉次郎のほうが、むしろめんくらった。

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「いいとも。お殿さまのご命令じや。遠慮なく、もっともつごうのよい場所を用いるがよいとおおせられたそうじゃ。」
「そうですか。それはここなら申しぶんありませんが。」
 嘉次郎が喜んで賛成したので、候補地はそこにきまった。
 理想的な場所だ−−と、嘉次郎は思った。西は紫雲山の山すそだが、西湖という池一つをへだてているので、とくに日当たりが悪いということはない。いや、西のはずれはかなり日の沈むのが早かろうが、そこはそこで、北国産の薬草など、日当たりのよすぎないほうがいい品種を植えるのにかえって適している。
 池に接したあたりには、沼沢地を適当とする品種があるわけだし、多角的にどんな品種にも適応できる、理想的な薬園地というべきであった。
 やがて何日かたつと、願いは許されて、菜園はその場所に決定した。
 年末がせまっていたが、休むことはできなかった。おおぜいの農家の青年たちがはいって、嘉次郎の設計にもとづく畑作りがはじまった。
 しかし、ものにはいい点もあれば、つごうの悪い点もある。たとえば肥料である。葉林の庭園は、殿さまのご別邸なので、うっかり人糞などまいていると、
「これこれ、くそうてならぬぞ。いつお殿さまがこられるかわからんのに、人糞をまくとは何事じゃ!」
 はるか離れた桧御殿まではにおうはずもないのに、番侍がどなりこんでくる。
 大みそかまであと何日という寒いある日、嘉次郎が中間たちをさしずして畑作りにどろまみれになっていると、塔山のもとの薬草園の整理に当たっていた玄丈が、息せききってかけてきた。
「白石さん、たいへんです! いま、志度から便いがあって、この手紙をわたされました。お父上がご重病だということです。」
「なに、父上が!」
 さすがに嘉次郎も、顔色を変えた。いそいで開いてみると、なつかしい母の筆跡で、
 −−きのうの夕方、お米蔵から帰った父がきゆうに倒れた。いそいで医者を迎えたが、卒中(そっちゅう:脳溢血(のういっけつ)だということで、そのまま寝させているが、いまのところ意識がない。一刻も早く帰宅してくれるように−−という意味のことが、驚きのあまりか、文字も文脈もかなりみだれて書かれてあった。
「これはいかん。玄丈、すぐに志度へ帰るから、横道さんにはおまえからよろしゆうお伝えしといてくれ。つごうでしばらく帰れんかもしれん。たのむぞ。」
「承知しました。ご心配なく行ってください。」
 嘉次郎は手早く手足を洗い、衣服をあらためて、栗林御殿の門を出た。
 冷たい西風が、かなりはげしく吹いていた。嘉次郎はその風を背に受け、肩をまるめて、走るように東へいそいだ。高松から志度までは、十何キロかの近い道なので、ほんの3時間ばかりで、目の暮れないうちに帰り着いた。
「ただいま、−−嘉次郎です。お父上は?」
 広間をはいると大きな声でさけんで、出迎えも待たずに居間にあがった。

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「おう、嘉次郎か。ようもどってくれたのう。」
 父のまくらもとには、おばばさんがすわっていた。
「あにさん、お帰りなさいませ。」
 冷たい水で手ぬぐいをしぼって、父の頭にのせていた里与(りよ)が、心配そうな顔に微笑を浮かべて、畳に手をつかえてあいさつした。もう九つで、しばらく見ないうちに、ずいぶん大きくなっている。
「ご容態は? 母上は?」
と、嘉次郎はせきこんでたずねた。
「見てのとおりじや。倒れたきりで、まだいっぺんも気がっかん。」
 おばばさんは、しわだらけの顔で、心配そうに首を横に振った。
「おたあはんはお薬をもらいに、いまお医者へ行っとる。」
「そうですか。」
 嘉次郎は父のそばによって、顔色を見、脈をとった。
「なにか吐きませんでしたか?」
「ゆうべすこし吐いた。きょうは吐かん。」
「そうですか。やはり脳卒中ですねえ。−−里与、新しい手ぬぐいか、ふきんを水でしぼってこい。」
「はいご里与はかいがいしく立って、すぐにふきんをしぼってきた。
 嘉次郎は父の口を開いて、たんやよごれをぬぐい取ってあげた。
 やがて母が帰ってきたが、
「おお、嘉次郎か−―。」
 病弱でおとなしい母は、そういうとさびしげなえがおで、ただ涙ぐむばかりだった。
 嘉次郎は母を激励し、里与に手つだわせて、父のまくらをすこし高くした。静かにふとんをのけて、帯をゆるめ、着物のえりをはだけて、父のからだをらくにしてあげた。
「どうじやろう、お父上のご容態は?」
 おちついてから、母がおそるおそるたずねた。
「さあ−−。」
 嘉次郎には、答えようがなかった。子として、父の全快をねがう気持ちはだれにもおとらなかったが、なまじ医学の素養があるだけに、自分の心のねがいを、診断にかえるわけにはいかなかった。

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「一両日、もようをみませんと……。」
 あいまいにいいのがれて、嘉次郎はじっと父の顔に見いった。
 −−50歳になって、髪がもう、薄くなりはじめていた。やせて日に焼けた顔には、深いしわが目だちはじめていた。

(お気の毒に−−父上も昔労なさったろう。)
 嘉次郎は思った。自分自身が宮仕えをはしめて、横道百太夫などという人とつきあってみてわかるのだが、身分制度のきびしい封建の社会では、足軽などという身分の低い者には、つらいこと、苦しいことが多いのだった。
 どんな理不尽(りふじん)な言い分にも、身分の低い者は、高い者のいうことに、正面からさからうことはでぎない。どんなりっばな考えを持っていても、軽輩の意見はとおるとはかぎらない。おまけに、わずかな俸給で、父は家族を養っていかねばならなかったのだ。
(もし万一、父がなくなられたら……そんな責任は、すべて自分にかかってくるのだ−−)

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 そう考えると、不安でもあり、おそろしくもあった。小心で平凡な父を、ときにはものたりなく思ったこともあったが、いま、こうして父に別れるかもしれないとぎがきてみると、ものたりないどころか、一家をささえ続けていた父が、きゅうに巨大に思えるのだった。あくる朝、嘉次郎が帰っていると聞いて、渡辺伝左衛門がさっそく見舞いにきた。
「心配じゃのう。」
 あいさつしようとする一帯次郎を手で制して、伝左衛門は茂左衛門のまくらもとにすわった。
「どうする、嘉次郎どの。−−−もし茂左衛門どのがしばらくよくならないとすると、きみは志度へ帰ってお米蔵勤務のあとを継ぐか、それとも高松に残るか?」
 このごろ伝左衛門は藩に召されて、家業のかたわら村役人を勤めている。名をあげつつある嘉次郎に敬意を表して、もう呼び捨てにはしなかった。また、父についても「死んだら」とはいえず、遠まわしに聞いた。
「はい−−。」
 嘉次郎は、首をたれて考えた。−−身分や職業が世襲であった当時としては、父がなくなったり働けなくなったりすれば、長男があとを継ぐのは当然のことだった。ましてや白石家には、嘉次郎のほかは病弱の母と、高齢の祖母と、幼い里与の女ばかりである。帰らないとは、容易にいえないわけだった。
(しかし、わたしは……学問を続げたい!)
 嘉次郎は、深刻に考えた。心を許した伝左衛門に対してでも、容易に答えられる問題ではなかった。
 嘉次郎の長い沈黙に、しばらくして伝左衛門は大きくうなずいた。
「性急に……わしが悪かった。きみの一生で、ここがいちぱんだいしな分かれ道だろう。ゆっくり考えることだ−−けんど、考えがきまったら、それがどちらであっても、わしは力いっぱい応援するから……心配するなよ。」
 父が小康を得たら、ふたりでいっぱいやろうと約束Lて、伝左衛門は帰っていった。

 しかし、茂左衛門の症状は、いっこうに好転しなかった。あけて寛延2年(1749年)の正月は、白石家にとってはかってない、暗いさびしいお正月になった。
 意識が回復しないので、食物もとれなかった。三日、四日としだいに衰弱して、六日の明けがたには、とうとう息をひきとった。
 母も、おばばさんも、里与も泣いたが、嘉次郎は泣かなかった。数日前から、死はすでに時間の問題だったので、嘉次郎は心の中で、泣くだけ泣いていたのだった。
 父にはもう会えないと思うと、悲しいというよりはさびしかったが、それよりも重い責任感が、嘉次郎の胸を占領した。
 葬儀(そうぎ)は、質素だが心をこめて行なわれた。

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 父の死を横道百太夫と玄丈に知らせ、休暇願いを出すと、嘉次郎はしばらく家にとどまった。
 初七日(しょなのか)の晩のことである。法事がおわって、母の実兄である山下実左衛門夫妻や、少数の親族だけを残して客は全部帰ったが、嘉次郎は特にこうて、松岡春房と、すでに志度等の住職になっている周峯と、渡辺伝左衛門の三人に居残ってもらった。
「嘉次郎どの、これからはたいへんじゃなあ。」
「生者必滅(しょうじゃひつめつ)のことわざどおり、人間の命とははかないものじゃが……しかし悲しむことだけが故人への回向(えこう)ではない……。」
 などと、みなは日々に嘉次郎をなぐさめ、はげました。
「ありがとうぞんします。−−ところで今夜は、師とも父とも兄とも思っておりますお三方に、ご相談やらお願いやらがございまして……。」
「なんじや。なんなりと、いうてみなさい。」
と、年かさの春房が、一同を代表して応じた。
「じつは……たいへんかってですが、家族はこのまま当地に残しまして、わたしはまだまだ学問を続げたいのです。かならず日本一の本草学者になろうと思うのです。」
「うむ。わしは賛成しやが。」
「それがよろしいでしょうなあ。」
 春房と周峯が、打てばひびくようにいちどに答えた。
「わたしは、むしろ、そのようにすすめたいと思うていたところでした。」
と伝左衛門が、腕ぐみを解いてふたりに続いた。
「嘉次郎くんにも、いずれは父君の扶持(ふち俸給)をくださいましょう。本人が高松にいても、あるいは江戸藩邸に移っても、家族の生計は成りたつはずです。−−それに……万一不自由なことがありますれば、およばずながら、このわたくしめがいかようにも……。」
「たのむぞよ、伝左衛門どの。」
と、春房が、嘉次郎にかわって礼をいってくれた。
「ありがとうぞんします。これで思い残すところなく、勉強にはげむことができます。−−なお、おそれいりますが、いま一つ……。」
「なに、まだあったのか。」
 春房が笑った。
「はい。じつはこの機会に、姓も名も改めたいと思うのですが。」
「ほほう、姓名をのう。なぜに姓まで改めるのじゃ?」

−109−


「はい。正確に申しますと、姓は改めるのでなく、むしろ正したい、平賀(ひらが)の旧姓(きゅうせい)に復したいとぞんずるのです。」
 嘉次郎は三人を順々に見て、はっきりといった。
「ほほう、平賀姓に復するのか−−。」
「はい。ご承知のとおり、わが家は信州(しんしゅう)(長野県)佐久(さく)の城主、平賀源心(げんしん)が末裔(まつえい:子孫)でございます。それが武田信玄のために滅ぼされたのち、その子孫、平賀二郎国家が奥州に移り、白石郷に住まい、仙台侯に仕えましたので、姓を白石と称することになったのであります。」
「うん。」
「ところが現在、わたしは讃岐の国志度に生まれ、高松に住して松平侯に仕えております。白石などという地名とは、今はなんの関係もございません。むしろ白石姓を名乗るのが誤りで、先祖伝来の平賀姓に復するのが正しいと思うのです。」
「それはわかった。して、名まえば?」
「はい。遠祖にあやかりまして、源内と名乗りたくぞんじます。」
 嘉次郎は、きっばりといった。
「名を正すは、道(みち)を立てる初めじゃと、古書にもある。嘉次郎がこころざし、わしは道理にかなうと思うのだが……のうご両所。」
 春房がいった。
「そうですなあ。」
 伝左衛門も周峯も微笑してうなずいた。
「かさねがさね、ありがとうございました。それではただいまより、
平賀源内国倫(くにとも)
−−と名乗らせていただきます。」
 嘉次郎は、両手をついて丁重(ていちょう)に礼をいった。
 それからはじめて微笑して、くつろいだ態度で、
「白石という姓は、卑屈(ひくつ)な陪臣(ばいしん)の姓でありました。平賀は、敗れたりとはいえ大名の姓です。わたしは、たとえ世俗の身分は足軽でも、学問の世界でだけは日本一の大大名になろうと決心しているのです。」
「なあんだ、こいつ。いろいろ理屈をこねおって、本心はそれか!」

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 わっはっは−−と、三人は嘉次郎をかこんで、明るい爆笑の雨をふらせた。それは父の死という悲しみをこえて、新しく平賀源内として出発する青年嘉次郎への、はなむけの哄笑(こうしょう)であった。

 それから十日ほど志度にいて、白石嘉次郎改め平賀源内国論は、高松の粟林御園内にある宿舎に帰った。横道百太夫を通じて届け出た改姓改名は、ぞうさもなく藩当局の諒承を得ることができた。
 横道に話すとき、源内はもっぱら、自分はいまは高松侯の臣下であって、仙台侯などにはなんの関係もない。むしろ白石などという姓は不忠で、平賀の旧姓に復するのが高松藩主への思議だと思うと、忠義という点に重点を置いて話した。
「うむ、あっぱれなこころざしじゃ。そちの心底は、よくわかったぞ。それでこそ、栄誉ある高松藩士というものじゃ!」
 封建思想の固まりみたいなこの老人は、ばかに感心して源内の話に賛同してくれた。
「平賀源内国論−−ですか。いいお名まえですねえ。なんだかきゆうに、大学者になられたような感じですよ。」
 玄丈だけは、理由なしに祝福してくれた。
「そういえばおまえ−−おまえの名まえもいいぞ。池田玄丈−−ぐっと学者ふうのしぶい名まえしやないか。おたがい名まえに負けぬように、しっかり勉強しよう。」
 ふたりは顔を見合わせて、大いに笑った。
 やがて春になり、春がたける。
 岩清尾塔山の旧薬園の人参園では、去年の夏まいた朝鮮人参が、讃岐の国でははしめての、かわいい芽を出している。
 いよいよ移植の目がきた。源内は以前、玄丈たちと讃岐国内を巡視したときに、山奥の内場(ないば)池の近くの安原というところの山畑と、毎岸に近い白峯という三百メートルほどの高さの台地とを、朝鮮人参を育てる薬園の分場として選んであった。その薬園作りの準備も、かねがね進めてある。
 しかし、だいじな移植には、だれかが立ち合わねばならない。
 源内は、白峯には中間頭(ちゅうげんがしら)の力三を、安原には玄丈と浜吉を行かせることに決めていた。海に近い台地の白峯は、むしろ試みにすぎないのだが、讃岐山地を分けいる、安原は、讃岐としてはもっとも朝鮮や満州ににた地勢であり、気候であろうと思われた。
 源内としては、安原にもっとも重点を置いて考えていた。
 それは本部である栗林庭園内の薬園での栽培よりも、本質的にはいっそうたいせつな植え付けであるかもしれなかった。
 しかし、本部はやはり本部である。源内は本部に残って、中間の忠兵衛とふたりで、移植の監督をすることになっていた。
 その朝、岩清尾塔山の薬園から、朝鮮人参の苗がほり起こされた。それはまだ小さな苗で、まっすぐな根に組いひげが五、六本はえていた。茎が先のほうで三つまたに分かれて、小さいが広い三枚の葉をつけていた。

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 玄丈と力三はすぐに、厳重な荷ごしらえをして、それぞれの受け持ちの土地へと出発した。源内たちは粟林の薬園へと運んだ。
 源内が忠兵衛をはじめ農家の青年たち二、三人を便って、自分でも手足をどろだらけにして植え付けに夢中になっているとき、南の『南潮』のほうから梅林橋を渡り、青葉の梅林を通って、身なりのいい武士が五、六人、薬園のほうへ歩いてきた。先頭は西尾縫殿(ぬい)で、近づくなり、

−112−


「源内、お殿さまのお成りだぞ!』
 大きな声をかけた。
 だが、源内は気づかない。
 忠兵衛や青年たちは土下座(どげざ)して、地面に頭をすりつけている。しかし源内は人参園の中に半身をつっこんで、苗を植える深さを考えて夢中であった。
「平賀さま、平賀さま!」
 小声でいって、忠兵衛が源内の野ばかまをさかんにひっぱった。
「なんだ、何事だ?」
「お殿さまが……、お殿さまがお成りです。」
「ええっ、お殿さまが!」
 源内は鷲いて、あわてて人参園から飛び出して平伏した。

「よいよい、そのままでよいぞ。仕事を続けてよいぞ。」
 気軽にいって、高松藩五代めの藩主、松平頼恭(よりたか)が源内に近よってきた。
「そのほうが白石嘉次郎か。」
「はつ。」
 源内は、しやちこばって答えた。
 頼恭はもう三十九歳、藩主になってから、すでに十年がたっている。
 さすがに気品があり、威厳が備わっている。前にいると自然に頭がさがって、いいえ、わたくしは改名いたしましたなどとは、とてもいい出せたものではない。
「殿−−。」
 と、横から西尾縫殿が助け船を出して、嘉次郎は先ほど父がみまかり(死亡し)、同時に白石姓を本来の平賀姓に復し、源内と改名しましたとことわってくれた。
「おお、そうであったな。聞いておったぞ。」
 と、頼恭はおうようなものである。
「そのほうの学問に精励(せいれい)の由、また、薬園の整備に精魂(せいこん)をつめておる由、かねて聞いておるぞ。大儀であるぞ。」

−113−


「ははっ。」
「よいよい。おもてをあげて、じきじきに答えてよいぞ。きょうはなにをしておるのじゃ。」
「はばっ。」
 源内はわるびれずに顔をあげた。
「朝鮮人参の移植でございます。かねて岩清尾(いわせお)の旧薬園にまいてありましたのを、本園に移植いたしておりまする。」
「うむ、朝鮮人参か。縫殿(ぬい)、そちが熱心に望んでいたものであったのう。」
「御意。十年来の望み、ようやく人を得、所を得まして、その緒につきはしめました。」
 と、この心の温い家老は、目をかけている源内に花を持たせる答えをしてくれた。
「うむ。ところで源内。そもそも朝鮮の特産である人参を、わが日本の国に移し植えて、たとえ生長しても同じ薬効(やっこう)があるものであろうか。」
 さすがに産業奨励を一生の仕事としただけに、頼恭はするどく問題の急所をついた。
「その儀、はばかりながら−−。」
 いいかけて、源内は縫殿の顔を仰いだ。しきじき答えよと頼恭はいったが、身分の低い自分が、ほんとうにそうしてよいものかどうか、源内はまよったのである。
 かまわぬ、話せ−−そんな表情で、縫殿はしっかりとうなずいた。
「おそれながら……いまだはしめての試みでございますれば、しかとはお答えできませんが……。」
 源内は、はっきりしたことばで答えた。
「そもそも植物には、移植の可能なものと不可能なものがございます。人参は朝鮮でも、もとは自然生(じねんせい)のものでしたが、いまではすべて栽培されていると、承ります。さすれば移植の可能なものでございましょう。」
 「かの地にて、自由に移植して、薬効(やっこう)がそこなわれませぬ以上、日本に移しても、ほぼ同じではあるまいかとぞんじます。ただし、産地により、ある程度薬効に優劣(ゆうれつ)のあるのは、同じ米にても、讃岐の米と、土佐(とさ)の米と、信濃(しなの)や越後(えちご)の米と、品質や味に差があるようなものではあるまいかと心得ます。」
「うむ。」
「よって日本のは、劣るやもしれませぬ。が、また、適地(てきち)を得、栽培方法に改良を加え、品種の改良をはかりますならば、朝鮮原産のものよりもすぐれた薬効あるものが、将来日本で育たぬともかぎりませぬ。−−さように心得ております。」
「うむ。」

−114−


「うむ、そうか。」
 頼恭(よりたか)は、まんぞくそうにうなずいた。産業の振興と、そのための人材の発見に努力している頼恭にとっては、たとえ身分は足軽でも、このわかさで、これだけの学問と識見(しっけん)を持った青年がいるということは、たいへんうれしいことだっただろう。
「ところで源内、なお相たずねるが……。」
 と、煩恭は、やさしい目になって、いった。
「そちはこれ以上の学問をいたすには、いかがいたしたいと望んでいるか。遠慮なく申してみよ。」
「は。これ以上の望みなどと……、恐れ多うございます。」
「かまわぬ、申してみよ。」
「はっ−−。」
 源内は下腹に力をいれて、自分をおちつかせてから、いったo
「おそれながら……上(かみ)、将軍家におかせられましては、西洋の医学、本草(ほんぞう)学などに、深くお心をよせていられると、もれ承っております。」
「うむ、洋学じゃな。」
「はっ。わたくし、承りますのに、西洋の学問は、一つ一つの事実を基礎に、それを積み重ねて、理屈をまとめていくと申します。わが国の学問は古典を重んじ、古典を金科玉条(きんかぎょくじょう)とするかたむきがございますが、たとえば本草学におきましても、じつは古典にも、事実とひきくらべて、まちがっている点が多々ございます。」
「うむ。さようなこともあろうかのう。」
「ばつ。それでわたくしは、西洋の学問を学び、それを基礎として、日本に新しい、正しい本草学をうちたてたいとぞんじまする。」
「うむ。」
「お許しがございますれば、長崎に留学し、かの地の通詞(つうじ:通訳)につきまして蘭語(らんご)・蘭学(オランダのことば・学問)を学びたいと思います。」
 源内は、目をつぶる思いで、一息に話した。
「長崎留学か。覚えておくぞ。」
 頼恭は、きげんよくうなずいて、縫殿たちをつれて御殿のほうへ去っていった。うしろ姿を見送って、源内は全身に、びっしょり汗をかいているのを覚えた。

−115−


(どうやら道は開けそうだ。お殿さまが、覚えておくぞといわれたのは、おまえを長崎へ行かせてやると、予約してくださったのも同しなのだ−−。)
(おれはやるぞ! 蘭学を勉強して、おれは日本に、新しい本草学をうちたてるのだ。日本一の学者になるのだ!)

 ふと、小身(しょうしん)に一生をおわった父の死に顔が、まぶたに浮かんだ。信州海之口城で、武田信玄の大軍を相手に、必死に戦っている平賀源心の姿が、浮かんだ。
(おれはやる! 先祖のだれにも員けないりっばな業績を、おれは学問の世界であげてみせる!)
 源内は、くりかえしくりかえし、そう心にさけんだ。

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