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近事片々・故事来歴


(ちょっぴり大げさなタイトルですが....)

 


 

<藤本鐵雄さんからの手紙> -1997.5.27-

 

 藤本さんから久々にお手紙を頂きました。
『この度、無事、ハッピーリタイヤーすることが出来た。これからは、ライフワークに本格的に取り組みたい』と言った内容でした。そして、『先週、旧別子銅山峯へ登って来ました。7月中旬に再び新居浜へ行きます。もしよろしければご子息もご一緒に四阪島を訪ねられてはと存じます。ご案内まで』と結んでいました。


 藤本さんご一家は、お父上が別子銅山の技術者で、ご本人が元・住友銀行、そして娘婿さんが住友金属にお勤めと言う、3代にわたって住友とは因縁浅からぬご一家です。
 一方、私の父はといえば、新聞記者駆け出しの頃の高松支局時代に、いろいろと別子のことを調べていた様です。そして後年、「四阪島」を初め「伊庭貞剛物語」など住友に関する本を何冊も出版しています。

 昭和46年、住友銀行入社18年目の藤本さんは、父の連載小説「四阪島」を毎日スクラップしながら読んで下さっていたんだそうです。
 その後、経営学にご造詣の深い藤本さんは、業務の傍ら、住友の原点である別子を中心テーマに据えて、経営史の観点から「住友」の研究をされました。


 藤本さんの著作には、『「明治期」の別子 そして住友』(お茶の水書房)があります。
 藤本さんと私の父とは、宝塚(兵庫)と町田(東京)という距離的な制約もあって、出合う機会がないままになっておりました。
 そして、父が逝去して後、藤本さんから父宛にご著書が届きました。

 早速、ご返事を差し上げました。
『父が存命中ならさぞかし喜んだことでしょう。----父の小説の題材は、“明治の気骨”を持った経営者ばかりです。
 藤本さんとお話しする機会があったら、きっと住友の話から始まって、“日本の近代経営学の夜明け・明治から、大正・昭和の現代まで”それこそ一晩中、話は尽きなかったことでしょう……』
 
 藤本さんからはそれ以後、何度かお手紙を頂戴しました。
 そして半年前、横浜で経営史学会が開かれた時、初めて我が家をお尋ね下さいました。
 お目に掛かった時、前々からの疑問を直接、ぶつけてみました。
 『本をお出しになった時、すぐにご連絡頂いておれば、お話しいただく機会もあったのですが....』。

 その時の藤本さんのお答えは、いまでも覚えております。
『お父上伊庭貞剛を中心に据えてお考えになっておられました。私の解釈とは相当に異なっており、何となく反発していたんです。----しかし、こんな事になるのなら、本を出した時、すぐにもお届けするのでした。いまにして思えば残念なことをいたしました』。

 藤本さんの含蓄あるお話に、私とカミさんと居合わせた息子は、すっかり吸い込まれておりましたが、中でも印象に残った話は、
『ハッピーリタイヤーした後は、別子が招聘したフランス人技術者ルイ・ラロックさんの帰国後の消息を調べ直そうと思っております』。
『パリに帰ってからの消息が分からないんです。いずれ、自分で調べるしかありません。そう思って、いまフランス語の勉強を初めております』。
 世の中、“半端じゃない人”、多いですね。

 そこまで伺えば、藤本さんに紹介したい人物がいます。
 小津映画の「さんまの味」や「東京物語」を観て日本が大好きになり、イナルコ大学で日本語を勉強し、いま筑波情報図書大学(大学院)で勉強中のミリアンさんです。
 『彼女は、奈良や京都が大好きで、よく出掛けます。藤本さんがフランスに出掛ける頃には帰国していて、いろいろと協力してくれるかも知れませんよ』と、私。
 『それはいい。我が家の子供達は、皆んな巣立ちました。部屋は空いております。関西にお出かけの時は、我が家を“定宿”にするようにと、そのお嬢さんにお伝え下さい』と、藤本さん。

 

 人の輪は、こんな風に広がっていくのだな、と実感した一日でした。
 巻頭に戻ります。
 『そうだ。息子(高校一年生)とミリアンさんの2人セットで、四阪島見物させていただくかな!』。
 藤本さんの第二の人生に、実りの大からんことを....。

 

 後日談

 

 『別子のOBの皆さんが四阪島見学会を企画しています。参加しませんか?』
と、藤本さんからお誘いをいただきました。

 念願が叶い、H9.11.16、念願の四阪島に出かける機会が生まれました。
 新居浜から船で20Km沖合の四阪島は、周囲1里の小さな島ですが、やはりこの眼で見ると違います。

 現地では、沢山の方々にお目に掛かりました。
 山村研究会会長の伊藤玉男さんは、父が何度も取材でお世話になった方でした。
 住友銀行OBの岡部陽二さんやNHK・大阪の大塚融さんも特別参加しておられました。----特に大塚さんは、広報時代に“映像による熊谷組社史”の調査・企画段階で貴重なご示唆をいただいた方だっただけに、久々の再会は大感激でした。

 『今度は一緒に旧別子に登りましょう!』皆さんから異口同音にお誘いをいただきました。
 多分、今年の夏には、再度、新居浜におじゃまする事になりそうです。(H10.1.1)

 


現在の四阪島

 

後日談(H10.10.22)

 藤本さんからe-mailが届きました。

> 六ヶ月余りの日数を要しましたが、漸く私のホームページが立ち上がりました。
> ご高覧下さい。今後さらに充実したいと考えています。
> URL:http://www.jade.dti.ne.jp/~fujimoto/

 住友史の第一人者の藤本さんには、お会いする度に
『ホームページを立ち上げましょう!』
と申し上げてきました。
 ご本人もその気になられて、フラットベッドのスキャナーまで購入されて、独力で着々と準備を進めておられたんです。
 そして、ついに念願のホームページを開設されました。
 私から見ても人生の大先輩であられる藤本さんのご努力に、心から敬意を表したいと存じます。

 早速、ホームページを拝見しました。
 そして、
 『次の仕事は、Yahoo JAPAN! や goo などのサーチエンジンへの登録ですね!』 
とご返事を差し上げました。

 皆さんもぜひ一度、藤本さんのホームページ
      明治の起業家とその事業
      藤本鐵雄(ふじもと・てつお)のホームページ

に足を運んで下さい。   

           


 

“こはく”のこと

 


(お正月のお飾り“小はく”)

 

 我が家のお正月を彩る“小はく”をご紹介します。
 四国の新居浜にほど近い別子銅山は、驚くほど高品質の鉱脈でしたが、険しい山道を嶺線越しに運び出さねばなりませんでした。
 写真は、こうして1年間に切り出した銅鉱石の中から選りすぐりの特に銅の含有率の高い鉱石を選び出し、両端を真っ直ぐにカットし、縦長の六角形に磨き上げて、しめ縄で飾ってみこし載せ、元旦に大山積神社に奉納したという“大ばく”と呼ばれる大変、お目出たい飾りもの。
 そのミニチュア版の“小はく”です。

 江戸の火消しがお正月の門松を毎年、毎年、工夫したように、現場を預かる頭領達がお正月の度に少しづつ意匠的に改良を重ねて、2〜300年の歳月を掛けてこの様な美しい形に仕上がったのでしょう。

 父が、“四阪島”、“伊庭貞剛物語”を執筆したご縁で住友金属鉱山から頂いて来たものですが、藤本さんが我が家にお越しになると聞いて、大急ぎで応接間に持ち出しておきました。
 藤本さんは、『これはお目出たいお正月の飾りものです。お正月には、是非、床の間に飾ってください』と説明下さいました。
 以来、我が家のお正月を彩る家宝になっております。

藤本さんから後日、関連記事を送っていただきました。

 

愛媛新聞(1997.1.6)

【見出し】
情緒豊かに「大ばくのうた」/新居浜大山積神社

【本文抜粋】
 
別子銅山で働いた男たちが、自然の恵みに感謝し、鉱山(やま)の発展を祈願した「大鈷(おおばく)のうた」が5日、新居浜市角野新田町3丁目の大山積神社で奉納された。住友金属鉱山を退職した30人の○Bが、情緒豊かな銅山のうたを披露した。
 ♪今−の旦那−さん−よ−末代 エーエー末代い御座りや…♪
 ♪今の旦那(だんな)さんよ末代御座りゃ はくにや歩が増す人が増す…♪
 大ばく祭は住友企業の新年祭式新生の一部。別子銅山から切り出した銅鉱石(大ばく)をしめ縄で飾った“みこし”に仕立て、元日の午前零時に構内を出発。大山積神に奉納していた。大ばくは、約2百50キロ。秋から準備にかり、良質の鉱石をツチとタガネで一定の形に仕上げた。奉納のあと、大ばくは製錬所に運ばれて神事。初吹きを実施した。
 木遣り節の系統をひく「おおばくのうた」は、道中や神事に鉱夫頭が歌った。昭和48年の閉山とともに消えた伝統行事。3年前から新年祭式の行事として復活させた。
 奉納者は、紺色の法被に鉢巻き姿。道中の露払い用にも使ったという“小はく”(重さ5キロのしめ縄付きミニ拡石)を持ち、境内で一番うたからスタート。本殿前で二、三、四番うたを斉唱。そのあと境内を下りて、最後の五番うたを披露した。
 神社には、住友14社から50人余りの幹部社員も参集。新居浜市と住友グループ発展の礎となった銅山の栄光をしのんでいた。

注:文中のキーワード「大ばく」の「はく」の字は“かねへん”に“白”と書きます。(“金白”)
  しかし、残念ながらパソコンでは、この漢字が使えません。
  “大ばく”、“小はく”と表記しました。

 

 


 

 

<高梨広孝さんからの便り>-1997.5.24-

 高梨広孝さんから久々に、厚紙でプロテクトされた手紙が届きました。
 こう言う時は、大いに期待してもいい。
 予想通り、凄い中身が入っていました。


 まずは、手紙の内容からご紹介します。(転載了解済みです)

『(前略)私もとうとうマックを購入しました。実を申し上げますと我が家の女二人に圧力をかけられて買ったのですが、一番使っているのが私です。プリンターのインクを一人で消耗していると責められております。同封しましたコピーはマックのフォトショップを使って自分で制作したパイクのモデルの写真を雑誌の写真(スキャナーで取り込んでいる)に嵌め込んだものです。必要な機材とソフトは全て揃えましたが、今のところ宝の特ち腐れといった傾向もあります。プリンターはエプソンのカラリオを購入しましたが、速度が遅いの除けば満足しております。(後略)』

 彼は、ヤマハのデザイン・ルームの総元締めとして長年、活躍しておられましたが、昔からの知る人ぞしる趣味の持ち主です。


 まずは、問題のプリント・アウトをお見せします。(サイズは160×230mm)

 

 

 彼の手に掛かると、“現実そのもの”のこんな凄い写真が出来上がる。
 折角だから、彼の“作品”の部分を少し大きくしてみます。

 

【DUCATI 750SS 1973年】
 あのイモラレーサーレプリカの独特の排気音を、
もう一度、サーッキットで聴いてみたいモノです。


 1972年、イモラで行われた第一回200マイル耐久レースに、ドウカティは、750c c Lツインを搭載したレーサー2台を出走させた。そして、大方の予想外であったと言われるが、ものの見事に、1−2位をドウカティ750デヌモレーサーが獲得してしまった。
 ドウカティの名声が世界中に広がっていったのは言うまでもなく、ドウカティ人気は高まった。そして、翌73年、このイモラレーサーのレプリカモデル、デスモ2気筒が、750SSとして発売された。
 このミニチュアーモデルは1/9のスケールでイモラレーサーレプリカを
忠実に再現したものである。モデルに使われている素材ば金属、皮、FRP、ゴムとほぽ現物と同じものである。

 

 この解説(緑の文字)は、高梨さんから手紙を受け取ってすぐに電話で「ホームページに掲載したいので解説文をFAXで送って欲しい」とお願いして書いて貰ったものです。----忠実に再現したものであるの部分は敢えて私が朱色に変えましたが、これには訳があります。 イモラレーサーレプリカの設計図は門外不出!
 絶対に我々の手には入りません。
 高梨氏は、『気に入った。これを作ろう!』となると、ヨーロッパに出張したときの余暇時間の全てを使って、地元・ヨーロッパでしか手に入らない資料漁りを始めるんです。何年も掛けて手に入る限りのあらゆる資料を調べ回る。その努力は、半端じゃありません。(その自信の程がこの言葉に隠されているんです!)

 そして、彼自身が納得のいったところでやおら腰を上げ、正確な縮尺(今回は1/9モデル)で全ての部品の“木型作り”を始める。
 ひとつ一つの部品を芸大・鍛金卒業の自慢の腕で、この“木型”を使ってコツコツと時間を掛けて気に入った形に鍛き出していく。----恐らくこの作品も、『作ろう!』と決心してから、こうして4、5年近い歳月を掛けてじっくりと仕上げられたものの一つです。

 彼のミニチュアーモデルの個展は、過去に六本木のアクスルで2〜3回、行われましたが、どの個展も凄かった。日本を代表する自動車会社のデザイナー達がその腕前に驚嘆の声を上げたものでした。

 インターネット上でいつでも彼の個展を見られないものか。
 会うたびに、ホームページを開設して欲しいと、お願いしてきました。

 その甲斐あって高梨氏が重い腰を上げ、マック仲間に加わってくれました。
 そして、H10.1.24にはインターネットにアクセスを開始します。
 彼の全作品を眼にすることが出来るのも、もう時間の問題です。

庭と東屋と車庫作り

 千葉の高梨邸がまもなく完成します。
 高梨さん、家の新築に先駆けて、自宅の庭を大改造していました。
 そして、その次には東屋を全く自力で造ってしまいました。

 

そして……。
 今度は、新築する邸宅に外観を合わせた車庫まで作ってしまったんです。
  私がお邪魔したのは、上棟式が終わったばかりの頃でしたが、お伺いした時は、主人がお留守で、その時居合わせた職人さんが、車庫を案内してくれました。
 そして、細部の見事な処理を指さしながら、「こんなところまできちっと作ってしまうとは、全く職人顔負け。困った御仁ですよ!」。


   大邸宅は本物の職人さん。右側の車庫は職人“高梨さん”の力作

 


 

<六川汎史さんからの便り>-1997.3.27-

 

“都内で一番の早咲きの桜”として夙に有名な小石川後楽園の“しだれ桜”の写真を撮った翌日の昼休み、運良く飯田堀を一人で散策しておられる六川さん(熊谷組のOB)と出くわしました。

 飯田堀の桜は、ちらほらと咲き始めたばかり。
 桜見物にはほど遠い状態です。
 そこで、「小石川後楽園の早咲きのしだれ桜が満開です。今からお出かけになってみては如何ですか!」とご案内しました。

 その足でお出かけになられたらしく、翌々日、自筆の絵葉書が届きました。
 表の文面によると、
『妙齢の美人とも話が出来た。今年初めて満開の桜を満喫した』
とありました。
 カメラなんぞを持ち歩くより、よっぽどしゃれています。
 絵心のある方が羨ましい!

 

 

 


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